第4章 入院費

「……で? そうしなかったら、どうなるの?」

江川莉奈は静かに問い返した。

江川藤志は激痛に歪む手首を押さえつつ、口元だけを吊り上げる。

「江川莉奈、いい加減にしろ。ばあさんは今、ロイヤルVIPルームだ。1日いくらかかると思ってる。全部、俺が払ってやってるんだぞ」

わざと間を置き、莉奈をねめつける。そこには露骨な脅しがあった。

「今すぐ遺産相続放棄の公正証書にサインしろ。しなけりゃ病院の支払いを全部止める。薬も治療も打ち切りだ。目の前でくたばるのを見たくなければな」

「本気で言ってるの?」

莉奈の眉間がわずかに寄った。恐れではない。人間としての底が抜け落ちたような発言に、ただ吐き気がした。

「それ、あんたの実の母親でしょ」

「外に肩入れするような真似をするからだ!」

藤志は顔を歪め、唾を飛ばす。

「お前は江川家の人間じゃない。江川家の財産に触れる資格もない。サインするか、死体の引き取りか。好きな方を選べ」

江川百合子がすかさず距離を詰め、火に油を注ぐ。

「莉奈、あんた孝行だの何だの言ってたでしょ? たかが金のために、おばあちゃんを見殺しにするの? 相続を放棄しないなら、この医療費、私たちは1円も出さないからね」

江川琉衣は笑みを噛み殺しながら、甘ったるい声で言った。

「ええ……姉ちゃんって、そんな冷たい人だったんだ? 遺産のほうが大事で、おばあちゃんはどうでもいいんだ。ひどーい」

三人が口をそろえ、屈する瞬間を待ち構える。

――なのに。

次の瞬間、莉奈は鼻で笑った。

「選べって? なら当然、遺産」

一家三人が、固まった。

百合子は呆然としたまま、声を裏返らせる。

「……は? あんた、おばあちゃんと一番仲が良かったでしょ! どうしてそんな冷血なこと――」

「冷血?」

莉奈の視線が鋭く冷える。

「実の母親を盾にして脅す連中よりは、よっぽどマシ」

そして淡々と言い切った。

「心配しなくていい。あとで1年分の入院費を前払いする。食事も療養も医療費も、全部私が面倒を見る」

「はははっ、笑わせないでよ!」

琉衣が腹を抱える勢いで笑う。

「1年で300万以上はかかるんだよ? 江川家の人間でもない貧乏人が出せるわけないじゃん。3,000円だって無理でしょ」

莉奈は眉を上げ、軽い調子で刺した。

「300万程度もないの? ……うわ、かわいそう」

百合子は鼻で笑い、手をひらひら振る。

「強がりもそこまでにしな。あんたに出せるわけないでしょ。こっちが本当に支払い止めたくなかったら――」

莉奈は口論を切り捨て、会計窓口へ向かった。

十分もしないうちに戻ってくる。手には、公印の押された入金確認書の束。

それを三人の前へ、ばさりと放った。

預託金は360万円。

三人の瞳孔が一斉に縮む。

「ありえない!」

百合子の顔色がさっと失せ、藤志の腕を掴んで揺さぶる。

「あんたがこっそり渡したんでしょ!?」

「俺なわけあるか!」

藤志も混乱したまま叫ぶ。

「盗んだんだ! 江川家の金を盗んだに決まってる! 今すぐ帳簿を――」

琉衣がふっと口角を上げた。

「分かった。駿斗兄が出したんでしょ。姉ちゃん、駿斗兄は今、私の婚約者だよ。しつこくお金ねだるの、恥ずかしくない?」

吉川駿斗。かつては莉奈の幼馴染で、婚約者だった男。今は琉衣の“もの”。

莉奈は声を上げて笑った。

「自分で稼いだ。残念だったね」

「何千万も『稼いだ』とか、まだ吹くか!」

藤志は鼻で一蹴する。

そのとき、病室の扉が勢いよく開いた。

長澤辰朗が興奮に頬を紅潮させて飛び出してくる。

「江川さん! よかった……! 大奥様が目を覚ましました!」

だが、江川家の三人を視界に入れた途端、長澤の表情から喜びが消えた。残ったのは露骨な侮蔑だけ。

――祖母が三か月昏睡している間、この三人は一度も顔を出さなかった。

「おばあちゃんが……!」

莉奈の目が潤み、足早に病室へ駆け込む。

病室では、江川婆さんがベッドに横たわっていた。

弱ってはいるが、瞳は驚くほど澄んでいる。

三か月の昏睡の間も、外の声は全部聞こえていたのだ。

息子夫婦の冷たさ。孫娘の打算。莉奈の昼夜を問わぬ看病――そのすべてを、胸に刻んでいた。

だから目覚めるなり弁護士を呼ばせた。考え直すべきことが、山ほどある。

莉奈を見ると、婆さんは白い顔に慈愛を浮かべた。

「莉奈……おいで。顔を見せて……三か月、苦労したね」

「おばあちゃん……苦しくない。起きてくれた、それだけで」

莉奈は老人の手を握り、声を詰まらせた。

遅れて江川家の三人も病床へ押し寄せる。喜びは薄く、むしろ失望が滲んでいる。

婆さんは冷たく言い放った。

「私が死んでなくて、がっかりかい?」

百合子は慌てて作り笑いを貼りつけ、布団を整えるふりをする。

「お義母さん、何言ってるんですか。心配でご飯も喉を通らなくて……こうして目を覚ましてくださって、本当によかったです」

藤志も涙を拭う仕草だけしてみせた。

「母さん、医者が……危なかったって。怖かったよ」

「全員いるなら、ちょうどいい」

婆さんは短く言い切る。

「大事な話がある」

「おばあちゃん、今は無理しないで」

莉奈が止めようとする。婆さんは優しくその手を叩いた。

「前の遺言書では、お前たちに株と基金を残して、家と現金だけ莉奈に渡すつもりだった」

藤志たちの肩が、目に見えてふっと落ちる。

――だが。

婆さんの声が一段低くなる。

「今は考えが変わった。私が死んだら、名義の資産はすべて江川莉奈に渡す。今日から自分たちの行いを悔いることだね」

「母さん……!」

藤志の顔から血の気が引き、膝がかすかに揺れた。

「なんでよ! 琉衣こそ本当の孫なのに!」

百合子が叫ぶ。

琉衣は目を赤くしながらも、言い返せない。

「疲れた。出ていきな」

婆さんは目を閉じ、切り捨てるように言った。

江川家の三人は魂の抜けた顔で追い出される。

莉奈が病室から出たところで、藤志が廊下の角に立ちはだかった。

顔は鉄青。視線が執拗に絡みつく。

「江川莉奈……どうしたら相続を放棄する?」

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