第5章 何の事に巻き込まれたのか
江川莉奈は壁にもたれ、氷のような目で男を見下ろした。
「どうして私が放棄しなきゃいけないの」
江川藤志は歯ぎしりして、最後の札を叩きつける。
「遺産を諦めるなら、琉衣に吉川駿斗との婚約を破棄させてやる。婚約者を返してやるよ。お前、ずっとあいつに未練があっただろう?」
江川琉衣は目を見開き、慌てて叫んだ。
「パパ! 駿斗兄は私のよ! 退婚なんてしない!」
「結構。ここ、ゴミの回収所じゃない」
江川莉奈は鼻で笑った。
江川琉衣が戻った途端、吉川駿斗は江川莉奈をあっさり切り捨てた。尻尾を振る犬みたいに江川琉衣へ擦り寄って。
それだけじゃない。彼女のことを、あちこちで「居座り続けた偽物の分際」だと言いふらした。
そんな男、江川莉奈が惜しむわけがない。
江川藤志は信じられない顔になる。
「で、でも……お前ら幼馴染で、一緒に育ったんだぞ? 情がないわけが――莉奈、遺産さえ放棄すれば、吉川駿斗はまたお前の婚約者だ」
江川莉奈はせせら笑った。
「一緒に育った人なんて山ほどいる。全員大事にしろって? いい加減にして。暇じゃない。さっさと消えろ」
――深夜1時。
江川莉奈はおばあちゃんを落ち着かせてから車を出し、田口家へ戻った。
相川綾子と軽く挨拶を交わし、自室へ。身体の重さを引きずりながらベッドに向かった、その瞬間。
スマホがけたたましく鳴り出した。
「江川莉奈! 今すぐデザイン画送って! 100枚! 至急!」
通話口から、山口夏美の大音量が耳を貫く。
江川莉奈は眉間を揉む。
「そんなに? 店に置ける?」
「置けない! 店、空っぽ!」
山口夏美の声は妙に弾んでいた。
「今日ね、カモ……じゃなくて超ド級の大客が来て、最近出したやつぜーんぶ買い占めたの! デザイン画ないと在庫切れで店閉める!」
江川莉奈は思わず吹き出した。
そのカモは田口宏明だ。今日、彼女が「暁」ばかり選んだのを見て、気に入ったと勘違いしてブランド丸ごと買ったのだろう。
「限定、残ってたでしょ」
山口夏美が一瞬黙る。
「え、なんで知ってるの? ずっと店チェックしてた?」
「チェックどころか、その大客、うちの父親。実のね」
それから江川莉奈は昼間の出来事をざっと話した。電話の向こうで山口夏美が怒ったり笑ったり、ひとしきり罵ったりして、ようやく落ち着く。
「江川家のあの三人、ほんと腐ってる! でもよかったじゃん。やっと本当の親に会えて、人生逆転だよ」
江川莉奈は思い出したように言う。
「ねえ夏美。今日買った服、返品してくれない? 1000万以上だし、最近出費多くて……」
「ダメ! 絶対ダメ!」
山口夏美が即答する。
「暁の鉄則、忘れた? 販売後の返品交換は一切なし!」
少し間を置き、追い打ちみたいに付け足した。
「てか、もう国内一の大富豪の娘でしょ。その程度、払えるって」
「はいはい。言ってみただけ」
江川莉奈は小さく溜息をつく。
「デザイン画は明日の朝送る。それでいい?」
「よし。じゃ切る!」
通話が切れた直後、また着信。今度は加藤薫だった。
「江川莉奈、最近なにか面倒に巻き込まれてない?」
江川莉奈は眉を寄せる。
「なんで?」
「今日、あなたがデザインしたピンクスター・ネックレスを持って、あちこちであなたのことを探ってる人がいる。相当な大物っぽくて、ついに私のところまで来た。最近、変な相手に喧嘩売ってない?」
江川莉奈の脳裏に、数日前の深夜がよぎる。助けた男が、無意識に首元のネックレスを掴んで引きちぎった――あの瞬間。
こめかみがずきりと痛んだ。
まさか、あの程度の“ついで”で救った相手の背景が、ここまで厄介とは。
「大丈夫。そっちからは何も漏らさないで。あとは私がやる」
加藤薫は、少し安心したように息を吐いた。
「分かった。気をつけて。どうにもならなかったら必ず言って。海外でも手はあるから」
「ありがとう。切るね」
スマホを置き、江川莉奈はベッドへ倒れ込む。
江川家の厄介事、おばあちゃんの病状、助けた男、それから田口家の内側で渦巻く何か。考えれば考えるほど増えていく。
やがて意識は、重い闇へ沈んだ……。
――翌朝。
使用人の山田さんが、炊き上げたツバメの巣を盆に載せて田口七海の部屋へ入った。
ベッド端に座り、俯いたままの七海を見た瞬間、胸がきゅっと痛む。
山田さんは七海を幼い頃から見てきた。自分の娘と変わらない。
ツバメの巣をサイドテーブルに置き、柔らかく声をかけた。
「お嬢様、そんなに落ち込まないで。新しく来た江川さんは、旦那様奥様と一緒に暮らしたことがありません。だからお二人も罪悪感で可愛がっているだけですよ。田口家での立場なら、結局お嬢様のほうが上です」
その言葉で、田口七海の涙が決壊した。
「今は何でもお姉ちゃんの言いなりで……私、もう居場所がない……」
「そんなことありません」
山田さんはティッシュを差し出し、優しく続ける。
「少し経てば熱も冷めます。それにお嬢様は優秀ですもの。成績優秀、詩も書も琴も絵も。江川莉奈に何が勝てます?」
田口七海の瞳に、少しずつ光が戻っていく。
山田さんはさらに身を寄せ、声を落とした。
「今大事なのは江川莉奈と争うことじゃなく、ご自分の将来です。梅原さん、最近ずっとご在宅だとか。関係を深めなさい。梅原家に嫁げば、江川莉奈なんて見上げるしかなくなりますよ」
梅原晴琉の名に、田口七海は口元を持ち上げた。
若く、整った顔立ちで、家柄も申し分ない。圈の誰もが認める“選ばれた側”。彼に嫁ぐことは、幼い頃からの夢だった。
梅原家の若奥様になれば――江川莉奈を完全に押し潰せる。
田口七海は拳を握り、決意を固める。
「山田さん……分かった。明日、晴琉兄に会いに行く!」
名目上の婚約者として、梅原爺さんの許可もある。田口七海は時折、梅原家へ顔を出していた。
その日、門をくぐった瞬間だった。
車で帰ってきたばかりの梅原晴琉と、真正面から鉢合わせる。
田口七海の胸が跳ねる。可憐ぶった笑みを作り、弾むように駆け寄った。腕に絡もうと手を伸ばし――
梅原晴琉は露骨に嫌悪して身を避けた。
「誰だ、お前」
