第6章 名医の暁がいればいいのに

田口七海の手が宙で止まり、頬に貼り付けた笑みが一瞬で凍りつく。

「晴琉兄、私だよ。七海……あなたの婚約者」

「婚約者?」

梅原晴琉は鼻で笑った。嘲りを隠す気もない。

「俺がいつ婚約者なんて持った。中島さん、この女を放り出せ!」

すぐに中島執事が、田口七海へ淡々と「どうぞ」と手を示す。

「田口さん、本日はお取り込み中でして。改めてお越しください」

田口七海は泣き声を滲ませ、縋るように懇願した。

「晴琉兄、今日はあなたに会いに来たの……お願い、追い返さないで……」

「消えろ」

梅原晴琉は露骨な嫌悪を隠さず吐き捨て、背を向けると、そのまま屋内へ入っていった。

閉ざされた扉。

使用人たちの、どこか居心地の悪い視線。

その場に立ち尽くした田口七海は、誇りも虚勢も一緒に崩れ落ちる。顔を覆ったまま、みじめに梅原家を逃げ出した。

この件はすぐ梅原爺さんの耳に入り、梅原晴琉は書斎へ呼びつけられた。

「このクソガキ! なぜ七海を追い出した! あの子はお前の婚約者だろう!」

「おじいちゃん、何度も言ったよな。勝手に婚約者なんて決めるな」

梅原爺さんは怒りで指を突きつける。

「七海は京清大学に受かって、琴棋書画も一通り! お前には十分すぎる!」

「もう一度言う。俺は破談にする」

梅原爺さんの顔が沈む。

「この縁談はお前たちが生まれる前から決まっていた。私が田口に頭を下げ、孫娘をお前にと約束したんだ。破談にしたら、天国で命を預け合った戦友に顔向けできん!」

「約束が大事なら、じいさんが結婚すればいい」

梅原晴琉は吐き捨て、立ち上がる。

「大旦那様!」

背後で中島執事の叫びが響いた。

振り返ると、梅原爺さんが胸を押さえたまま床へ崩れ落ちていた。

――

病院のVIP専用救命室前。

梅原晴琉は、周囲の空気まで凍りつかせるような低気圧を纏っていた。

主治医が深く頭を下げ、重い声で告げる。

「梅原さん……梅原爺さんは急性心筋梗塞に伴う合併症で、非常に危険な状態です。すぐ手術が必要ですが、リスクが高い。年齢とお身体を考えると……手術台から戻れない可能性も。心の準備を……」

「役立たずが! ゴミクズども!」

梅原晴琉は医師の襟を掴み上げた。

「全国トップの医療チームだろ。心筋梗塞ひとつ治せないのか!」

医療スタッフは震え上がり、誰も口を開けない。

若い医師が勇気を振り絞り、囁くように言った。

「名医の暁先生がいれば……きっと……!」

「暁……?」

梅原晴琉は手を放し、脳裏に霞む影を引きずり出した。

――

夕刻。江川莉奈のスマホが鳴る。表示は、長澤剛志。

「莉奈。おばあちゃんの具合はどうだ」

「もう大丈夫。それで、用件は?」

師が自分から連絡してくる。ろくでもない頼みだと分かる。

長澤剛志は気まずそうに笑い、咳払いした。

「実は急ぎで頼みがある」

「言って」

「旧友が急性心筋梗塞で危険だ。手術は難しい。俺が戻るには間に合わん。お前が行って救ってやってくれ」

「手術料はいくら?」

莉奈は一番肝心なところだけを訊いた。

「長年の友だ。金の話は――」

江川莉奈は眉を上げる。

「じゃあ金はいらない。師匠の漢方古籍を分けて。孤本だけ。10冊。1冊でも欠けたら行かない」

「10冊は多すぎる! 5冊! 5冊が限界だ!」

長澤剛志が悲鳴を上げる。

「孤本の貴重さはお前も知ってるだろ!」

「5冊はお断り」

江川莉奈は薄く口角を上げた。

「それは師匠の友人で、私の友人じゃない。救うかどうか、師匠が決めて」

沈黙。

数秒後、電話の向こうで崩れた叫びが響いた。

「分かった! 10冊! 10冊やる! 今すぐ行け、遅れるな!」

「成立」

莉奈は通話を切り、両親に一言だけ告げて車を飛ばした。

――

救命室前は人で埋まっていた。

国内屈指の内科医たちが揃っているのに、誰一人、手術に踏み出さない。機材だけが整い、空気だけが重い。

梅原爺さんの身分。梅原晴琉の権勢。

失敗の代償が重すぎる。

「お前らがトップの専門家だと!?」

梅原晴琉が怒号を飛ばす。

「心筋梗塞ひとつ治せないのか。じいさんに何かあったら、お前ら全員、葬ってやる!」

医師たちは俯いたまま、誰も前へ出ない。

罵られるより、終わりの方が怖いのだ。

そのとき、江川莉奈が人垣を割って進み出た。

「私がやる」

梅原晴琉が振り向き、幼さの残る顔を見た瞬間、怒りがさらに増した。

「出ていけ!」

高校生に毛が生えた程度の少女が、手術だと? 冗談じゃない。

そこへ院長が駆け込んでくる。

「あなたが長澤剛志先生のお弟子さん……江川莉奈さんですね?」

莉奈は淡く頷いた。

「庄――いえ、長澤先生の弟子がこんなにお若いとは……まさに後浪推前浪!」

周囲がどよめく。

医聖・長澤剛志の弟子?

江川莉奈は面倒そうに院長を見た。

「院長。手術、させるの? させないの?」

「やってください! もちろん!」

院長は即答し、梅原晴琉へ向き直る。

「梅原さん、ご安心を。この方は長澤先生の直弟子です。必ずや――」

梅原晴琉は疑いの目を隠さない。

「本気で言ってるのか」

医師たちもざわつき、循環器内科主任の大橋文也が真っ先に噛みついた。

「院長、冗談はやめてください! 命がかかってる! こんな子が心筋梗塞の手術なんてできるわけがない! 藁にもすがるにしても限度があります!」

「医聖? 聞いたこともない」

「失敗したら病院が終わるぞ」

嘲りと疑念が飛び交う。だが江川莉奈の表情は微塵も崩れない。

院長が怒鳴る。

「黙れ! 長澤先生が推薦されたんだ。私は信じる!」

それでも若い女医が食い下がる。

「師匠が凄くても弟子が凄いとは限らないでしょ。こんな若い子、メス握ったこともないかもしれないのに」

「能書きはいい。できる奴がいるなら出てこい。できないなら黙ってろ!」

院長が一喝し、梅原晴琉へ頭を下げた。

「梅原さん、時間がありません。どうか――江川さんを信じてください!」

そのとき救命室の扉が開き、看護師が青白い顔で飛び出してきた。

「院長! 危険です! バイタルが急降下、心拍がほとんど――!」

全員の視線が梅原晴琉に集まる。

最後の決断を待っていた。

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