第7章 あの夜彼を救った謎の人物
梅原晴琉は、かつてないほどの葛藤に沈んでいた。こんなにも無力だと感じたのは、生まれて初めてだ。いつもなら「自分が全てを掌握している」という根拠のない自信がある。だが今、その足場は跡形もなく崩れ去っていた。
「ピロン――」
江川莉奈のスマホが通知音を鳴らす。
長澤剛志:【莉奈、手術は始まったか。終わったら無事を知らせろ】
莉奈の指が素早く画面を叩く。
江川莉奈:【まだ。この人たち、私を信用しない】
長澤剛志:【ふん。俺が国内を離れて久しいから、名まで軽んじられたか。少し待て。こちらから一本入れる】
莉奈はスマホをしまい、何事もなかったように静かにその場に立ち続けた。
――数分後。
梅原晴琉の私用携帯が鳴った。画面に表示された名前を見た瞬間、表情が引き締まる。反射的に背筋を伸ばし、すぐに通話を取った。
「山本爺さん……俺です。祖父が……状態が最悪で。国内の医者が誰も執刀しようとしません」
受話口の向こうから、老いてなお揺るがぬ威厳の声が響く。
晴琉は何度も頷きながら聞き、しかし口調には拭いきれない迷いが混じった。
「でも、彼女は若すぎます。本当にこの手術が……? それに、海外の専門家がもうすぐ――」
「愚か者!」
叱声が鋭く耳を裂く。
「お前の祖父は待てるのか? それに昔、私が死にかけたとき救ったのは長澤爺さんだ。その直弟子なら、海外の名医より十倍信用できる! 黙って手術をさせろ!」
「……分かりました。山本爺さん」
通話を切ると、梅原晴琉は深く息を吐き、江川莉奈へ視線を戻した。先ほどまでまとわりついていた猜疑が、半分以上、霧のように散っている。
山本爺さんが、あそこまで言うのなら――。
彼は足早に近づき、真剣に問いかけた。
「本当に、祖父を助けられるか」
江川莉奈は淡々と頷く。
「猶予はありません。ここでずっと待っていました。今すぐ手術です。これ以上遅れれば、本当に手遅れになります」
そのとき、水野聡美が一歩踏み出し、顔色を変えた。
「梅原さん! 本当にこの子にやらせるんですか? 梅原爺さんの命を賭けるなんて、冗談じゃありません! 海外の専門家がすぐ――」
「水野聡美!」
院長が怒鳴りつける。顔は怒りで青ざめていた。
「まだ待つつもりか! 万が一のとき、お前に責任が取れるのか!」
「院長こそ老いぼれです!」
水野聡美は歯噛みしながら叫び返す。
「こんな若い娘に心筋梗塞の手術なんて無理です! 私は名医の家系で、幼い頃から祖父に叩き込まれてきた。それでも軽々しく引き受けない。なのにこのガキが、何の根拠で――!」
梅原晴琉は奥歯を噛みしめた。耳の奥では、山本爺さんの言葉がまだ燃えている。
――黙って手術をさせろ。
迷いが消える。残ったのは、背水の覚悟だけ。
「手術だ」
梅原晴琉は言い切った。
「彼女にやらせろ」
「なっ……!」
水野聡美の顔が引きつり、信じられないと叫ぶ。
「梅原さん、正気ですか! そんなの――!」
周囲の医師たちも一斉に騒ぎ出す。
「やめてください!」
「人命ですよ!」
「医学を遊びにする気ですか!」
「終わった……梅原爺さんに何かあったら、俺たちも――!」
梅原晴琉の視線が氷の刃になる。
「お前ら……ゴミクズは黙れ」
その一言で、場の空気が凍りついた。誰も声を出せない。
梅原晴琉は低く言った。
「頼む」
江川莉奈は軽く頷き、更衣室へ向かった。
しばらくして、無菌手術衣に身を包み、マスクとキャップを付けた莉奈が戻ってくる。露出しているのは、清冷で鋭い双眸だけ。
迷いなく救急救命室へ入っていった。
院長は即座に循環器内科の精鋭二名を補助につける。
二人とも業界のトップクラス。誇りも高い。内心では苛立っていた。
――俺たちが助手? 小娘の?
だが次の瞬間。
江川莉奈がメスを握った途端、二人の目が見開かれる。
速い。正確。判断が一切ぶれない。
十数年の経験を積んだ外科医より滑らかだ。十八、九の少女の手技とは、どう見ても思えない。
軽蔑は消えた。
残ったのは、畏怖と渇望。
二人は息も忘れ、彼女の手元を凝視する。一挙手一投足すら逃すまいと、瞳を瞬かせない。
この手術に立ち会えること自体が、異常な幸運だ。ここで見たものを血肉にできれば、術者として次の段へ跳ね上がる――。
時間が過ぎていく。
救急救命室の外で、梅原晴琉は扉を睨み続けた。秒針の一つ一つが拷問だった。
三時間後。
手術室のランプが消え、ほどなく扉がゆっくり開く。
梅原晴琉は弾かれたように駆け寄り、江川莉奈の腕を掴んだ。喉が擦れた声で問う。
「どうだ……祖父は……!」
江川莉奈は淡々とマスクと手袋を外す。
「成功です。大旦那様は危険を脱しました。あとはきちんと管理すれば、すぐ目を覚まします」
その直後、補助についた二人の医師も出てきた。興奮を隠せない顔で、莉奈を見つめる。
「江川先生の腕は神業でした……完璧です。徹底的に負けました」
一人が深く頭を下げる。
「先ほどは大変失礼しました。連絡先を……今後、専門的にご教示いただければ……!」
江川莉奈は薄く笑う。
「すみません。不便なので」
喜びで理性が吹き飛んだ梅原晴琉は、慌てて小切手を走り書きし、差し出した。
「手術料だ」
数字は5,000万。
だが江川莉奈は受け取らない。
「いりません。報酬は師匠から受けています。失礼します」
そして院長へ付け足す。
「手術中、銀針で心脈を護りました。今なら抜いて捨てて構いません。看護に影響はありません」
言い終えると、彼女は振り返らず去っていった。
水野聡美は呆然と立ち尽くす。
自分が鼻で笑った“ただの小娘”が、現実にやり遂げた――?
梅原晴琉もまた、去りゆく背中を凝視していた。渡せなかった小切手を握りしめたまま、脳裏に一つの像が閃く。
少女。
銀針。
異常な医術。
――全てが、あの夜の「謎の人物」と重なる。
深夜、事故現場で自分を救った影。
あれは――江川莉奈だったのか。
