第8章 探り
その疑念は、梅原晴琉の胸に深く根を張った。病院での江川莉奈の仕草、視線の動き、淡々とした物言い――一つひとつを丹念に反芻していくうちに、あの夜、自分を救った“影”と、江川莉奈の輪郭が少しずつ重なっていく。
晴琉は迷いなくスマホを取り、助手の田原匠真へ電話を入れた。
「江川莉奈っていう女の資料を洗え。徹底的に。三十分以内に送れ」
田原匠真の仕事は早い。ほどなくして、江川莉奈の情報が丸ごと晴琉の端末へ届く。流し読むつもりだった指が、ある一文で止まった。
――江川家の実子ではない。幼少期から軽視され、江川家で冷遇を受けてきた。
晴琉の表情が、わずかに沈む。
なお、江川莉奈が田口家へ戻ったという話は、まだ世間に出ていなかった。田口家は吉日を選んで盛大な認親宴を開くつもりで、当面は外部に伏せている。ゆえに田原匠真も、彼女が田口家の娘であることまでは掴めなかった。
――――
三日後。
梅原老の容体が完全に落ち着き、ようやく晴琉は一息つけるようになった。
そして決める。江川莉奈を、探る。
山本老から回り回って連絡先を手に入れ、電話をかけた。
『……どなた』
通話口から届いたのは、冷ややかで澄んだ声。
「江川さん。俺は梅原晴琉。祖父を助けてくれて感謝してる。礼に食事でもどうだ」
一瞬の間。
江川莉奈の脳裏に、噂がよぎる。京清市の権力者グループでも名の知れた、怖いもの知らず。手に負えないほど傲岸で、梅原老ですら手綱を握れない――そんな男が、わざわざ自分に連絡を?
病院で見たのは、焦りはあっても祖父を案じる孝心だけだった。だからこそ余計に、読めない。
「……お気持ちはありがたいですが、時間がなくて」
断りの言葉に、晴琉は最初から織り込み済みだとでも言うように、声を崩さない。
「江川さん、急ぐな。医書を一冊持ってる。『霊枢御世経』……興味あるだろ」
電話の向こうで、息が変わった。
「それって……失伝した『霊枢御世経』?」
医道の聖典。何年探しても手がかりすら掴めなかった一冊。
胸の奥が熱くなるのを、江川莉奈は咳払いで押し殺す。
「……そこまで誠意があるなら、お言葉に甘えます。いつ、どこで?」
「今夜7時、満月軒。待ってる」
通話が切れる。
晴琉は椅子の背へ身を預け、口元の笑みを隠さなかった。
満月軒――京清市屈指の会員制クラブ。秘匿性は抜群で、出入りするのは富と権の塊ばかり。
――――
夜7時。
江川莉奈は時間通りに現れた。白いワンピースに素顔。飾り気はないのに、清冽で近寄りがたい美しさがある。
案内されて個室へ入ると、梅原晴琉はすでに待っていた。冷えた空気を纏う男が、彼女を見るなり、棘だけを引っ込める。
「江川さん。どうぞ、座って」
江川莉奈は腰を下ろすなり、卓上を素早く見回した。だが肝心の医書が見当たらない。焦りが喉元までせり上がる。
「改めて礼を言う。君がいなければ祖父は助からなかった」
晴琉は茶杯を取り、丁寧に掲げた。
「大げさです。師匠に言われただけ。私がやったのは本分です」
淡々と返し、堪えきれず切り出す。
「それで……『霊枢御世経』は? 少し見せてください」
「焦るな」
晴琉が低く笑う。
「まずは料理を頼め。書はちゃんと渡す」
料理を待つ間、晴琉がふと、何気ない調子を装って口を開いた。
「ひとつ聞きたい。少し前、俺は大きな交通事故に遭って、『暁』っていう名医に助けられた。探しても足取りが掴めない。江川さん、彼女の居場所を知らないか?」
来た。
江川莉奈の胸が、わずかに締まる。
あの夜、助けた相手が梅原晴琉――ここまで繋がっていたとは。
だが、彼はまだ確信していない。なら、こちらから認める必要はない。
「暁先生の噂は聞きます。でも神出鬼没で……残念ながら、私も分かりません」
「そうか」
晴琉は意味深に口角を上げる。
「でも君の腕は暁に劣らない。いや……それ以上かもしれない。親しいのかと思った」
「買いかぶりです」
江川莉奈は笑って受け流す。
「暁は伝説。私は師匠に少し教わっただけの端くれです。交友なんて、とても」
晴琉は、彼女が必死に“知らない”を貫いていることを理解しながら、追及しなかった。
代わりに、傍らの古びた木箱を静かに差し出す。
「じゃあ、これを」
蓋が開いた瞬間、紙と墨の匂いが立った。積み重ねた年月の重みが、濃く迫る。
江川莉奈の瞳が、一気に輝く。
指先が吸い寄せられるように頁へ触れ――すぐ、はっと我に返った。ここで食いつけば、疑いを深めるだけだ。
二頁ほど、あくまで軽く捲る。感情を押し殺し、箱を戻した。
「本物ですね。見せてもらえて光栄です」
晴琉が言う。
「君にやる。祖父を救った礼だ」
「いえ、受け取れません」
江川莉奈は即座に首を振った。
「報酬は師匠から受けています。これは貴重すぎる」
「価値が分かる人の手にあるべきだ」
晴琉は真剣な目で言う。
「君が持てば救える命が増える。それがこの本の意味だ。受け取れ」
その言葉で、江川莉奈の中の印象が少し変わった。
だが、今の自分は危うい。身元を探られている以上、迂闊に“本気の顔”は見せられない。
そこで、江川莉奈はふと策を思いつく。
名門の御曹司が嫌うのは、露骨に金を追う女――なら、欲に塗れて見せればいい。疑いの矛先を逸らせる。
口元に、ずるい笑みを浮かべる。
「実は私、俗物なんです。医道とか聖典とか、あんまり興味なくて。私が好きなのは――お金だけ」
晴琉が眉を上げる。
「この前、俺の5000万の小切手は受け取らなかったのに?」
江川莉奈は一瞬詰まり、すぐに取り繕った。
「師匠から報酬をもらってましたし、師匠の友人のお見舞いでお金取るのは気が引けて。どうしてもお礼したいなら、現金でください。この本より実用的です」
「……なるほどな」
晴琉は、わざと納得したふりをして追及をやめた。
料理が運ばれると、会話は取り留めのないものになった。主に晴琉が問うて、江川莉奈が答える。時折、医書に関してだけ彼女の言葉が少しだけ熱を帯びるが、すぐ平熱へ戻る。
意外なほど、空気は悪くない。
食後、晴琉は送ると言ったが、江川莉奈は断った。
晴琉は強要せず、木箱を彼女の手へ押し付ける。
「とりあえず持っていけ。読み終わったら返せばいい」
江川莉奈は迷いながらも受け取った。
「……ありがとうございます。読み終えたらすぐ返します」
――――
帰宅して間もなく、江川莉奈のスマホに不在着信が一件。
相手は先輩の田井友菜だった。すぐ折り返す。
『莉奈! 大ニュース! 逆命丹が闇市オークションに出る! 今回こそ落とすよ!』
江川莉奈はベッドの上で跳ね起きた。
「本当? 絶対に落とす。どんな代償でも!」
――同じ頃。
梅原晴琉の別荘では、田原匠真が恭しく報告していた。
「若様。三日後、闇市で“最後の一粒”の逆命丹が競売にかかります。すでに複数の名門が動き始めています」
