第9章 オークション会場の駆け引き
ブラックマーケットは街の地下深くに潜み、薄暗い照明の奥に甘い奢靡が滲んでいた。江川莉奈は黒いキャップに医療用マスクをつけたまま、足音を殺してオークション会場へ入る。
通常の競売にあるような喧騒は、ここにはない。客は全員、個室。
踏み込めるのは、金か権力の怪物だけだ。天井知らずの財を抱える者か、手にした権限で他人の人生をひっくり返せる者か。誰もが、自分の行方を晒すことを嫌う。
個室に入るなり、莉奈は帽子とマスクを外し、静かに座った。待つ理由はひとつ――逆命丹。
このブラックマーケットは噂以上だった。象牙、虎骨、犀角といった禁制品は前座にすぎない。富豪たちが本当に群がるのは、常識を踏み潰し、運命すら塗り替える“品”だ。
死者を引き戻すと囁かれる神薬。黒歴史を一瞬で洗い流す最上級の身分洗浄パッケージ。世界監視用ステルス衛星の専用権限。あらゆるシステムに侵入できる量子級ハッカー用メインフレーム……。最高機密に分類され、一般人は存在すら知らない代物が、ここでは値札をつけられ堂々と競りにかけられる。
技術は境界を越えて進み続ける。だが、その成果を握るのはいつだって少数だ。闇市とは、そうした禁忌の流通路――。
当然、門は狭い。身分の保証に加え、口座には最低100億の流動資金。どちらが欠けても入場は叶わない。
そして莉奈は知らない。隣の個室に、梅原晴琉が座っていることを。
競売は淡々と進む。千年の龍涎香が名門のセレブに10億で落ち、太古の巨獣の牙が正体不明の人物に法外な値でさらわれた。体能を底上げするジーン・エンハンサー・セラムですら50億。
江川莉奈は終始無表情だった。どれも、彼女の心を動かさない。狙いはただひとつ、最後の“目玉”だけだ。
梅原晴琉も同じ。会場がどれほど熱を帯びても、彼は一言も発しない。
やがて司会者が古びた錦箱を抱え、足早に壇上へ上がった。マイク越しの声が会場全体を震わせる。
「皆さま、お待たせしました。ここからが本日のクライマックス――逆命丹!」
蓋がゆっくり開く。赤く艶めく丹が姿を現し、清冽な薬香が個室の壁を越えて漂った。
「この丹は俗世から離れた医家の秘伝。千年前に途絶えた古法で練り上げられたものです。元は10粒。時を経て現存は――この1粒のみ!」
司会者は息を呑ませる間を置き、言い切る。
「不治の病でも、瀕死の事故でも。服せば命を三途の川から引きずり戻し、損傷を修復し、延命すら望める――そう伝わる絶世の神薬!」
「一丹在手、我が命は天にあらず! 開始価格は1000万。最低加算は10万。さあ、始めましょう!」
直後、入札が雪崩れ込んだ。
「2000万!」
「5000万!」
「1億!」
数字は跳ね上がり、あっという間に2億を突破しても勢いは止まらない。金はただの数字でも、命は一つ。逆命丹は“もう一回”を買う切符だ。
だが、江川莉奈も梅原晴琉も動かない。個室の外で熱が高まるほど、二人の沈黙だけが際立った。
3億に到達したあたりで、ようやく声が途切れる。落札目前だったのは白髪の名門の老人だ。勝ち誇った顔で、司会者の槌を待っている。3億は多くの者にとって限界――そう踏んだのだろう。
司会者が槌を上げた、その瞬間。
梅原晴琉の隣で、田原匠真が淡々と告げた。
「4億」
空気が凍る。
一気に1億上乗せ。しかも声色一つ変えない。誰だ――という視線が、見えないはずの個室の向こうで渦を巻く。
老人の顔がみるみる青くなる。それでも意地を張り、叫んだ。
「4億1000万!」
梅原晴琉が顎をわずかに上げる。田原匠真が続けた。
「5億」
また1億。入札ではない。圧殺だ。
老人は唇を噛み、黙り込んだ。
司会者の口元が緩む。これだけの取引なら、一生遊んで暮らせる――そんな下世話な興奮すら滲ませながら、槌を落とそうとした、その刹那。
隣室から、清冷な女声が響いた。
「5億1000万」
梅原晴琉の身体が、ぴたりと固まる。
聞き間違えようがない。江川莉奈だ。
彼の無関心だった瞳に、ふっと愉悦が灯る。体を起こし、マイクへ言葉を落とした。
「5億2000万」
さっきまで端数を切っていたのは、周囲を黙らせるため。
ここから1000万刻みにしたのは――ただの遊びだ。莉奈をからかうためだけの。
隣室の莉奈は、拳を握りしめた。声で、相手が誰かなどとっくに分かっている。
(梅原晴琉……わざとやってる)
深く息を吸い、マイクへ叩きつける。
「5億3000万!」
「5億4000万」
晴琉の声は軽い。笑いすら混じる。
「5億5000万!」
「5億6000万」
一往復ごとに、会場の視線が二人へ吸い寄せられていく。観客は面白がり、司会者は笑いを隠せない。「入札有効!」を繰り返しながら、内心で踊っている。
莉奈は歯噛みした。どれだけ上げても、晴琉は必ず1000万だけ上に乗せる。露骨な嫌がらせ。資金勝負なら、勝てる見込みが薄いことも分かっている。
そして晴琉が言った。
「10億」
会場が沸騰した。
丹一粒に10億。いったい何者だ――と、誰もが息を呑む。
莉奈は入札画面の数字を睨みつけ、奥歯をぎり、と噛む。無理だ。ここで張り合っても、焼け石に水。
(いい。カモになるなら、勝手にやってろ)
彼女は入札を止めた。
司会者が槌を掲げ、朗々と響かせる。
「10億! 一回! 二回! 三回! 落札! おめでとうございます!」
槌音が落ちる。梅原晴琉が口角をわずかに上げた。
隣室の江川莉奈は苛立ちを隠さず、帽子とマスクを乱暴につけ直すと、立ち上がって個室を出た。胸の奥に、息苦しいほどのむかつきが溜まっていく。
田原匠真に回収を命じ、晴琉が隣室へ向かったときには、莉奈はすでに会場から消えていた。
だが梅原晴琉は焦らない。
さっきの声で、彼女も自分に気づいたはずだ。逆命丹を欲しがる江川莉奈が――いずれ自分のもとへ来る。そう確信していた。
