第3章
英一郎はまっすぐ家に車を走らせ、私はまるで糸のついた風船みたいに、ただ引っぱられていく。私たちの家。いつか子供たちでいっぱいにしようと夢見て、三年前に二人で買った家は、昔と寸分違わない姿でそこにあった。白い塀、深緑の雨戸、そして私がまだハッピーエンドを信じていた頃に植えた紫陽花の茂み。
まったく、なんて世間知らずだったんだろう、私は。
英一郎は駐車場に車を停めると、しばらくの間、まるで解けないパズルでも見つめるかのように、じっと家を眺めていた。彼の体を揺さぶり、耳元で『あんたが愛してる女は麻薬の売人で人殺しなのよ!』と叫んでやりたい。でも、彼に私の姿は見えないし、声も聞こえない。
見えない存在。……生きている時と、まるで同じだわ。
やがて彼は車を降り、玄関のドアに向かう。私は幽霊のように彼の後をついていく。まあ、今の私にぴったりの表現かもしれないけれど。
彼が靴を脱ぎ終えるか終えないかのうちに、ドアをノックする音がした。英一郎がドアを開けると、彼女がいた。翼だ。完璧な髪型、ブランドものの服、そして純粋な悪意でできた心を隠す甘い微笑み。
「英一郎!」翼は弁当箱を掲げてみせる。「夕食、持ってきたの。電話だと、とても疲れてるみたいだったから」
この性悪女……
「……気が利くな」英一郎はそう言って、一瞬、驚いたような顔になった。誰かに世話を焼かれることに慣れていない、というように。
『私がそうしてたからでしょ!』叫びたい。私が夕食を持ってきて、長い一日の後には肩を揉んであげて、書類仕事の愚痴を聞いてあげてたじゃない! なのにあんたは、その全部をこんな人殺しの売女のために捨てたんだ!
翼はまるで自分の家みたいにキッチンにずかずかと入り込み、手の込んだチキン料理らしきものを温め始める。そして、結婚祝いにもらった、特別な日にしか使わなかったはずの、私たちの高級な食器棚からお皿を出してテーブルに並べていく。
私の食器を使ってる。私の家で。私を殺させた、その女が。
「それで、今日のお仕事はどうだった?」食事が始まると、翼が尋ねる。「すごくストレスが溜まるようなことでもあった?」
「ゴミ処理施設で遺体が見つかった」英一郎は一口食べながら言った。「かなり悲惨なやつだ。バラバラにされてた」
翼の表情は変わらない。感情の揺らぎひとつ見せない。ただ同情するように頷き、彼に冷たいビールを持ってくるだけだ。
「それは大変だったわね。誰だか分かったの?」
「まだだ。被害者の身分証もなかった。身元を特定するにはDNA鑑定が必要になる」
『あんたの妻よ、このくそ野郎!』耳のすぐそばで叫んでいるのに、彼は何も問題ないといった顔で、翼の作った料理を頬張り続けている。
「きっと解決できるわ」翼はテーブル越しに手を伸ばし、彼の手を握る。「あなたはこの町で一番優秀な警部補だもの」
その褒め言葉に、英一郎はなんと顔を赤らめる。私が最後に彼をそんな風に褒めたのは、いつだった?
その考えが、不意に胸を突く。仕事で帰りが遅いのを責めたり、ゴミ出しを忘れたのを咎めたりする代わりに、私が最後に彼を気持ちよくさせてあげたのは、いつだったんだろう?
翼が皿を片付け、私のシンクで洗い物をしながら、静かに鼻歌を歌っているのを、私は見ていた。彼女は私のキッチンを、まるでそこに属しているかのように動き回る。ここがもう彼女の家で、彼女の人生であるかのように。
それでいいのかもしれない。その考えが、止める間もなく忍び寄る。見て、彼女は彼をあんなに幸せそうにしている。彼女といる時の彼は、あんなにリラックスしている。私が彼といて、あんな笑顔を見たのは、最後はいつだった?
ああ、私って本当にひどい妻だったのかもしれない。
二人はリビングへ移動し、翼はソファで英一郎の隣に寄り添う。かつて私たちがまだお互いの存在を楽しみ、一緒に映画を観ていた、あのソファで。
私が、新しく現れた美しい女には到底敵わない、口うるさい妻になる前のこと。
私は向かいの肘掛け椅子に沈み込む。生きていた頃、いつも私が座っていた椅子だ。でも今は、クッションの感触も、布地の肌触りも感じられない。私はただ、夫が私を殺した女と新しい人生を築いていくのを眺めるだけの、影法師だ。
私は静かに祈る。私が完璧じゃなかったことは分かっている。嫉妬心や甘えたい気持ちで、彼を追い詰めてしまったのかもしれない。でも、あんな死に方をするなんてあんまりだ。切り刻まれて、ゴミみたいに捨てられるなんて。
それなのに、なぜこの光景は殺されることよりも辛いんだろう? なぜ二人が一緒にいるのを見るのは、殴り殺されるよりも苦しいんだろう?
そして、なぜ私は泣くことさえできないんだろう?
無理に涙を流そうとしても、何も出てこない。どうやら、死者は涙を流して安らぎを得ることは許されないらしい。
その夜遅く、私は英一郎について二階の私たちの部屋へ向かう。彼は疲れ果てていて、制服を脱ぎ捨てると洗濯かごに放り込んだ。すると、戸口に翼が現れる。私が去年の記念日に買ったけれど、一度も袖を通すことのなかった、黒いシルクの寝巻きを身につけて。
私の物にまで手を出してる。その侵害行為に、肌が粟立つ思いがした。もう、厳密には私に肌なんてないというのに。
「こっちに来て」彼女は猫なで声で言い、英一郎に手を伸ばす。
一瞬、私の正気の残り滓を完全に破壊するような光景を目撃するのだと思った。だがその時、英一郎が私の核心を揺さぶるような行動に出た。
彼は、一歩後ずさったのだ。
「今夜は、本当に疲れてるんだ」彼は視線を合わせずに言う。「ただ……寝るだけじゃだめかな?」
翼の完璧な顔が、ほんの一瞬だけ醜く歪む。だが彼女はすぐに表情を取り繕った。
「もちろんよ、英一郎。長い一日だったものね」
しかし、彼女はそれで引き下がらなかった。二人がベッドに入ると、彼女は再び仕掛ける。
「英一郎、私たち、もう何週間も会ってないよ」
「分かってる。すまない。ただ、仕事が――」
「五十回も私を拒絶したわ!」言葉が彼女から爆発する。「五十回よ、英一郎! いったいどうしちゃったのよ!?」
英一郎はたじろぐ。「翼、頼む。俺はただ――」
「ただ何? もう私に魅力を感じないってこと? 正直に、あなたが拒絶したものを、喜んで手に入れようとする男なら、この町にいくらでもいるわよ」
脅迫の言葉が、二人の間に重く垂れ込める。英一郎の顔が青ざめた。
「そういうことじゃない」彼は囁く。「そうじゃないって、分かってるだろ」
「じゃあ、なんなの? 私から見れば、あなたは私に触れるくらいなら、修道僧みたいに暮らしたいようにしか見えないわ」
五十回?私の死んだ脳が、この情報を処理しようと試みる。彼が彼女を五十回も拒絶した?
でも、なぜ?私たちの結婚を捨て去るほど彼女を愛しているのなら、彼女が私の決してなれなかった全てだというのなら、なぜ彼は彼女から身を引いているの?
いったい、ここで何が起きているの?
翼は部屋から飛び出し、背後でドアを激しく閉めた。英一郎はベッドの端に座り、両手で頭を抱えている。
『もう、あなたのことが分からない』私は夫を見つめながら思う。たぶん、一度も分かったことなんてなかったのかもしれない。







