第1章
目を開けると、身体中がバラバラになりそうなほどの倦怠感に襲われた。
三年が経っても、椎名湊のあの強引な求め方には、どうしても慣れることができない。
寝返りを打つと、隣はすでに空だった。
湊は姿見の前に立っていた。朝の光が彼の裸の背中に落ち、冷淡で美しい筋肉の陰影を浮き立たせている。どこか人を寄せ付けない空気を纏いながら、彼は気だるげにカフスボタンを留めていた。まだ眠気が残っているのか、瞼は半分ほど落ちている。
「起きるの早すぎないか?」
朝特有の、少し掠れた声だった。
腰の鈍痛に眉をひそめながら、私は床に落ちているストッキングを拾おうと身を屈めた。昨夜、彼の手によって無惨に引き裂かれた黒い糸の塊だ。
湊が振り返り、私が着替えようとしていたコットンの下着を指先で摘み上げた。口元に、薄い嘲笑のようなものが浮かぶ。
「結衣、お前はいつもこういう地味なやつばかりだな。たまにはもっと色気のあるものにしたらどうだ?」
私は下着を受け取った。
「じゃあ次はブランドを変えてみる。どんなのが好きなの——」
湊は私の言葉を遮った。
「いや、いい。あとで玄関のパスワードを変えておくから、もうここには来るな」
私はその場で凍りついた。
椎名湊とこういう関係を続けて三年になる。
最初はたまに。そのうち残業がない日は、ほとんどこのマンションの半同棲人のような生活を送っていた。
彼のシャツにアイロンをかけ、しじみ汁を作り、週末はソファで映画を見ながらスナック菓子を食べる。まるで本当の恋人のように夜を過ごしてきた。
時間が経つにつれ、私は錯覚すら抱いていた。言葉にしなくても、これは「付き合っている」ことなのだと。私たちには未来があるのだと。
それなのに今、彼は「もう来るな」と言い放った。
私は反射的に尋ねていた。
「実家にお見合いでもセッティングされたの? それとも最近仕事が忙しいから? 私なら——」
彼はアイランドキッチンに置いてあったスマホを手に取り、画面を点灯させて私の目の前に突き出した。
「違う。果歩がOKしたんだ」
その名前が誰を指すのか理解するのに、数秒かかった。
宮下果歩。会社に入ってきたばかりの新人。二十三歳。控えめで上品な笑顔を見せる子だ。
ここ数年、湊の周りには女が絶えなかったが、どれも長続きしなかった。今回もただの気まぐれだと思っていた。
喉が渇いて張り付くようだ。
「本気なの?」
湊は笑った。
「本気だ」
画面にはLINEのトークルームが表示されていた。相手からの短いメッセージ。
「椎名さんとなら、私、喜んで」
湊はスマホを引っ込め、鏡に向かってネクタイを整えながら、事務的な口調で私に釘を刺した。
「果歩は今までの女とは違う。すごく純粋で、感受性が強いんだ」
「結衣、これからは会社でもプライベートでも、極力俺に話しかけるな。距離を置け。果歩が見て嫉妬したり、機嫌を損ねたりしたら困る」
窓の外の陽光はあんなに明るいのに、全身が芯から冷えていくのを感じた。
彼にとって私の存在は、彼の「純粋な恋」に対する汚点でしかなかったのだ。
「わかった」
数秒後、自分の声とは思えないほど冷静な声が出た。
「じゃあ、荷物をまとめてすぐ出て行く」
「そんなに急がなくてもいい」湊は腕時計に目を落とした。「賃貸の更新、もうすぐだろ? 新しい部屋が見つかるまで数日くらいならいてもいいぞ」
恥辱が平手打ちのように頬を張った。私は目を閉じた。
「いいえ、今日出て行く」
何に焦っているのか自分でもわからなかった。湊の言う通り、東京に他に頼れる場所なんてない。
けれど、一刻も早くここから逃げ出したかった。大勢の人に見つめられて裸にされているような、一秒一秒が拷問のような気分だった。
このマンションに、私の荷物は驚くほど少なかった。
彼の生活の世話をするために買い足した雑貨を除けば、私自身の所有物はリュックサック一つすら満たせなかった。
この三年間、私が残した痕跡なんて、たったこれだけの重さだったのだ。
玄関を出ようとした時、湊が私を呼び止めた。
彼は上半身裸のまま壁に寄りかかり、煙草に火をつけていた。
「結衣、お前ももうすぐ三十だろ。いつまでも一人でいないで、そろそろ身を固めること考えろよ」
彼は紫煙を吐き出し、淡々と言った。
「これからも、俺たちは一番大事な友達だからな」
私はその言葉の裏にある意味を理解し、頷いた。
東京の冬はいつも骨まで染みるような湿った寒さだ。北国のさらっとした寒さとは違い、じっとりして息が詰まる。
ビルを出ると、空から霙混じりの雨が降ってきた。冷たい湿り気が頬を打つ。
空を見上げる。さっきまで晴れていた空は、いつの間にかどんよりと曇っていた。湊と一緒に東京に来てから、記憶の中の天気はいつもこんな灰色だった気がする。
突然、無性に神南湾が恋しくなった。
故郷の海辺の寒さは凛としていて、一晩中大雪が降った翌朝、ドアを開ければ世界は白一色。清潔で、清々しい。
東京の雨のように、ねっとりと心に澱むことはない。
私はリュックを足元に置き、品川駅の路肩に立って実家に電話をかけた。
母はすぐに出た。驚きと、どこか遠慮がちな声だった。
「結衣?」
冷たい空気を吸い込み、ツンとする鼻をこすった。
「お母さん、家の味噌汁が飲みたい」
母の声が弾んだ。
「じゃあお父さんに魚を買ってきてもらおうか? 最近新幹線の切符は取れるのかい——」
「いいの。私、今年はお正月に帰るから」
母が一瞬言葉を詰まらせ、すぐに歓声に近い声を上げた。
「本当に?」
「うん」
私は空を仰いだ。涙がこぼれないように。
雨水が目に入ったのか、視界が滲んで仕方がない。
睫毛についた雫を瞬きで払い落とし、私は掠れた声で言った。
「お母さん、私、仕事辞めたの。もう実家に帰ろうと思う」
