第4章
翌朝早く、私は羽田空港に向かった。
電源を切る直前、その投稿が目に入った。
椎名湊のインスタグラムのストーリー。
顔は写っていない。重なり合う二つの手と、薬指に光る指輪がやけに眩しい。
キャプションもミニマリズムそのものだ。「New Chapter」。
そして高らかに宮下果歩のアカウントがタグ付けされている。
画面上で共通の友人たちから次々と「おめでとう」のメッセージがポップアップするのを見ても、怒りも、涙さえも湧いてこなかった。
ただ、脳より先に指が動いた——アイコンを長押しし、赤い「削除」をタップする。
まるで長年体を蝕んでいた病巣を取り除くかのように。
神南湾の実家に戻ると、両親が配達用の軽トラックで道端に待機していた。
田舎とはいえ、年末の雰囲気は大都市に負けていない。家々の玄関には門松が飾られ、遠くの神社からは除夜の鐘の試し打ちだろうか、重い鐘の音が海面に響いていた。
ハンドルを握る母は、子供のようにはしゃいでいた。ここ三年、この時期になると私はいつも不在だったからだ。
だが、その温かい空気も二つ目の角を曲がる頃には消え、恒例の爆撃が始まった。
「結衣、あんたももうすぐ三十だろ? 東京でいい人がいないなら、こっちで見つけちゃえばいいじゃない」
「ほら、あそこの田中さんちの娘さん、もう二人目を抱いてたわよ」
「そうだ! うちの民宿に最近、長期滞在してる東京のイケメンがいるのよ。音楽やってるんだって。お母さん見た感じ良さそうだったから、今度紹介してあげようか?」
母は私の表情を盗み見ながら喋り続ける。私が以前のように癇癪を起こすのを恐れているのだ。
以前の私は何と言っていただろう?
「好きな人がいるの、東京に」
馬鹿みたいに、永遠に果たされない約束を守り続けて。
車窓の外、夕陽に染まって血のように赤く光る海を見ながら、私はふと、かつての自分が滑稽に思えた。
私も、もう立ち止まって息がしたい。
「いいよ」
「……あんたまたそうやって口答えして、お母さんだって——え? なんて?」
「いいよって言ったの。いい人がいれば、会ってみる」
夕食後、荷物を整理していると、古いスマホのLINEが鳴った。
画面に「椎名湊」の三文字が躍っている。
通話ボタンを押した瞬間、彼の当たり前のような声が聞こえてきた。彼は私がもう手の届かないところにいることなど微塵も気づいていない様子だ。
「なんでずっと繋がらなかったんだ? 電波悪いのか?」
私が答える間もなく、彼は勝手に続けた。「まあいい。正月のおせちは秘書に頼んで『吉兆』のを手配させた。今年の酒は何がいい? いつもの獺祭でいいか?」
その何事もなかったかのような口調が、一瞬にして私の記憶をあの悪夢のような大晦日へと引き戻した。
あの年も、こんな寒い冬の夜だった。
本来なら実家に帰っていた私は、彼にビデオ通話で新年の挨拶をしようとした。
画面が繋がった先には、暖房もなければ、テレビの紅白歌合戦の音もなかった。
ただ、風の音だけが轟いていた。
椎名湊は真っ暗なバルコニーに一人で座り、足元には空の酒瓶が転がっていた。彼はカメラに背を向け、眼下に広がる底知れない東京湾の海面を見つめながら、壊れそうなほど小さな声で言った。
「結衣、ここの海と、神南湾の海は、繋がってるのかな」
心臓が縮み上がった。
その日は、彼の母親の命日だった。
数年前の大晦日、名門の結婚生活に精神を蝕まれたあの女性は、世間の笑い声の中で、神南湾の別荘から身を投げ、氷のように冷たい海へと消えたのだ。
あの夜、椎名湊は振り返り、真っ赤な目で、泣くよりも辛そうな笑顔を画面越しの私に向けた。
「静かだな。結衣、ここはすごく静かだ」
その瞬間、私の理性は吹き飛んだ。
両親には会社が火事になったと嘘をつき、深夜便のチケットを取って東京へ飛び戻った。
午前三時、彼のドアを叩き、震える男を強く抱きしめ、二度とこの日に彼を一人で海と向き合わせないと誓った。
それ以来、これは私が勝手に守り続けてきた鉄の掟になっていた。
「おい? 結衣? 聞いてるのか?」
電話の向こうの催促が私を現実に引き戻した。
私は深く息を吸い込み、窓の外の神南湾の暗い海を見つめ、静かに口を開いた。
「私、実家に帰ったの。湊」
受話器の向こうは死んだように静まり返った。
数秒後、彼が乾いた声を絞り出した。「あぁ……そうか。たまには親の顔を見に帰るのもいいな」
問い詰めもしない、引き留めもしない。
その時、背景から宮下果歩の甘ったるい声が聞こえてきた。「湊君——早く来てぇ、このアロマディフューザーどうやって使うの?」
「今行く」
彼の返事は素早く、そして優しかった。
なんだ、彼はとっくに一人じゃなかったんだ。あの海はとっくに彼を飲み込んだりしなかった。私だけが馬鹿みたいに、自分を浮き輪だと思い込んでいただけだった。
「切るね」
そう言って、私は指に力を込めて赤い終了ボタンを押した。
画面が暗転し、私の乾いた目尻が映り込んだ。
眠れないかと思ったが、陽の匂いのする畳の上に横になると、私は泥のように深く眠った。
目が覚めたのは喉の渇きだった。
午前二時、海辺の湿った冷気が床の隙間から骨に染みてくる。
パジャマをきつく巻きつけて水を飲みに階下へ降り、浴室の前を通りかかった時、足が止まった。
中から水音がする。
泥棒!?
一瞬で目が覚め、心臓が早鐘を打つ。スマホは二階だ、通報は間に合わない。
その時、浴室のドアが「カチャ」と音を立てて開いた。
瞬間、脳裏に数々のホラー映画のシーンがよぎり、身体は脳より先に動いた。玄関にあった重厚な長傘を掴み、目を閉じて力任せに振り下ろした!
「勝手に入らないで!最低!」
「ぐっ!」
相手の反応は速かった。私の手首をガシッと掴み、私が悲鳴を上げる前に、大きくて熱い掌が私の口を塞ぎ、私を強く抱きすくめた。
背中に触れたのは裸の、湿って熱い胸板。鼻先には微かなミントのボディソープの香りが漂う。
私は恐怖で目を見開いた——この泥棒、風呂まで入ったの!?
生き延びるために、私は必死になり、顔の横にある腕に噛み付いた!
思い切り!
男は呻き声を上げ、筋肉を硬直させたが、鉄の万力のように微動だにしない。
終わった、勝てない。
私は瞬時に土下座の姿勢になり、涙を流しながら不明瞭な言葉で命乞いをした。「お、お願いします、殺さないで! 招き猫の下にお父さんのへそくり三十万円があるの! 足りなかったらPayPayで送金もできるから! 私、まだ恋人もいたことないし結婚もしてないのよ、お願いだから命だけは——」
頭上から、微かな、息の漏れるような笑い声が聞こえた。
続いて、リビングの電気がついた。
白い光が眩しくて目を細める。
目の前に立っていたのは若い男だった。髪は濡れて雫を滴らせ、上半身は裸。水滴が腹筋のラインを伝って緩いスウェットパンツへと消えていく。
何よりおかしいのは、この「泥棒」がそのまま芸能界デビューできそうなほど整った、涼やかで禁欲的な顔立ちをしていることだ。
私は混乱して口走った。「ちょっと待ってよ、その顔なら歌舞伎町でホストしたら一晩で何十万も稼げるじゃない? なんでうちみたいな田舎の貧乏な家を狙うのよ?」
男の美しい切れ長の目が三日月のように細められ、風呂上がりの少し低い声が響いた。
「あなたが中川さんのお嬢さんですね?」
「隣の民宿に泊まっている者です。あっちの給湯器が壊れてしまって、お母様に浴室をお借りしたんです」
彼は手を離し、礼儀正しく一歩下がって軽く会釈した。「申し訳ありません。こんな夜中に、確かに変質者みたいでしたね」
記憶が蘇る。
母が車の中で確かにそんなことを言っていた。
気まずい。
切腹したくなるほど気気まずい。
私は顔を真っ赤にし、その場で消えてしまいたくなった。「ご、ごめんなさい! 私の勘違いで……」
彼は手を振り、自分の腕に目を落とした。「いや、僕が悪かった——いっ」
そこにはくっきりと二列の歯型がつき、血が滲んでいた。
「本当に申し訳ありません!」私はパニックになった。「救急箱持ってきます!」
数分後。
まさか帰省初夜に、半裸の見知らぬイケメンとソファに並んで座ることになるとは思わなかった。
互いの呼吸が聞こえるほどの距離だ。
私は綿棒に消毒液をつけ、恐る恐る傷口の手当てをした。ついでに彼の名前が高嶺晴人で、東京から曲作りのために籠もりに来た音楽家だと知った。
「結構深く噛んじゃった……」私は傷を見て眉をひそめた。「高嶺さん、病院で破傷風の予防接種を受けた方がいいですか?」
高嶺晴人は顎をさすり、真剣な顔で傷口を見つめた。
「そうだな、狂犬病のワクチンが必要かもしれない」
私は一瞬きょとんとし、彼が私を狂犬扱いしていることに気づいた。
睨んでやりたかったが、あまりに分が悪く、気勢を削がれて悔しそうに俯くしかなかった。
彼はそんな私の様子を見て吹き出し、照明の下で腕を持ち上げながら、皮肉っぽい口調で言った。
「冗談だよ。それにしても、随分と綺麗な円形の歯型だ。なかなか芸術的だよ」
