第1章
「オリヴィア、今回の体外受精は成功よ。おめでとう。帰ったら無理せず、しっかり安静にね!」
手の中の妊娠判定の紙を見つめた瞬間、胸がいっぱいになって、指先が震えた。
――やっと、成功した。
夫のイーサンと結婚して三年。いちど流産も経験した。それでも諦めず、体外受精の力を借りて、私たちはもう一度、自分たちの子どもを授かったのだ。
私は急いで家へ戻り、この知らせをイーサンに伝えたかった。驚いて笑う顔が見たかった。
けれど、屋敷の玄関に着いたとき、扉がわずかに開いていることに気づいた。中から、イーサンと義母の声が漏れてくる。
「神様……どうか今度こそ、オリヴィアがうちの血を宿しますように」
隙間から覗くと、義母は手を組み、熱心に祈っていた。私の妊娠を、本気で願ってくれているのだと思ってしまった。
私は笑って、まだふくらみもしない下腹をそっと撫でる。今すぐ入って、二人に報告しよう――そう思った、そのとき。
義母の声が、もう一度響いた。
「ねえ、あんた。もしオリヴィアが本当に妊娠して……それが自分の子じゃないって知ったら、怒って堕ろすんじゃないの?」
――え?
ノックしようと上げた手が、空中で止まった。
自分の子じゃない?
私のお腹の子が、私の子じゃないって……どういう意味?
「大丈夫だよ、母さん。卵子を替えたことは、あいつには分からない」
イーサンの低い声は、いつも通り落ち着いているはずなのに――その冷たさが、胸を凍らせた。
「ソフィアとの子を産ませたら、適当な理由を作って離婚する」
玄関先で立ち尽くしたまま、目の前がぐらりと揺れた。耳がおかしくなったのかと思った。
ソフィアはイーサンの元恋人。家の猛反対で別れたと聞いていた。別れてからは連絡も取っていないと、私は信じていたのに。
まさか――ずっと忘れられなかった?
まさか――私が必死で授かった子は、他人の子?
「それならいいわ」
義母の声には、露骨な侮蔑が混じった。
「そもそもあの子の父親が、恩義だ何だって言い張らなきゃ、田舎から来た女を嫁に迎えるなんて絶対に嫌だった。ソフィアのほうがずっといい。名家の出で綺麗で、私が小さい頃から見てきた子だもの」
「昔だって、あいつが卑怯な手で父さんに取り入らなければ、ソフィアは堕ろさずに済んだのに」
イーサンの声が、さらに冷たくなる。
「だから今回は、ソフィアの子をあいつに産ませる。……贖罪だよ」
心臓を鋼の針で刺されたように、細かく、息もできないほど痛んだ。
結婚してからの三年間、イーサンは優しかった。気遣いも完璧で、誰もが「理想の夫」と言った。
なのに――最初から、私を妻にする気なんてなかった?
「三年も子どもができなかったのに、今回はうまくいくのかしら」
義母が嘆く。
「母さん。子どもができないようにしてたのは、俺だ」
耳に、言葉が叩きつけられる。
「ビタミン剤を、こっそり避妊薬に入れ替えてた」
「えっ……?」
義母が息を呑む。
「俺の子の母親は、ソフィア以外あり得ない」
世界が崩れ落ちた。
私が不妊だと自分を責めている間、彼は優しい顔で慰めていた。
――違う。慰めていたんじゃない。最初から、私に産ませるつもりがなかっただけだ。
思い返せば、あの温柔も情熱も、全部が作り物。
体外受精を勧めたのも、私の卵子をソフィアのものにすり替えるため。
私は、子どもを孕ませるために選ばれた道具。
用が済めば捨てる容器。
どうやって家を出たのか、覚えていない。気がつけば、病院の前に立っていた。
鞄の中の妊娠判定の紙を思い出し、私はそのまま、体外受精を担当したエヴァンス医師の診察室へ突進した。
「エヴァンス先生!」
ドアを乱暴に開け、呆然とするエヴァンスの胸倉を掴んで椅子から引きずり上げる。
「言いなさい! 私のお腹の子は、いったい誰の子なの!?」
エヴァンスは青ざめ、視線を泳がせた。
「オ、オリヴィア夫人……わ、私には……。お子さんは当然、ご主人とあなたの――」
「そう?」
私は話を打ち切り、ポケットから銃を取り出した。銃口を容赦なく彼の額に押しつける。
「最後にもう一度聞く。子どもの父親は、誰?」
「やめてください! 病院で発砲なんて――刑務所行きだ!」
「分かってる」
私は銃で彼の額を強く突いた。
「私の父が特殊部隊だったの、知らない? ここであなたを殺しても、警察は死体すら見つけられない」
口にするのも嫌な過去だった。けれど、子どものこととなれば関係ない。
カチ、と引き金の金属音がした。
死の気配に、エヴァンスは膝から崩れ落ち、床にへたり込む。
「言います! 言いますから! あなたのご主人が……大金を渡してきて、別の女性の卵子と交換しろと……。でも看護師が緊張して……引き継ぎのときに、間違えて……!」
私は震える息を押し殺し、銃口を動かさない。
「……どういう意味?」
「看護師は……あなたの卵子は交換しなかったんです。代わりに……ご主人のほうのサンプルを、取り違えた……!」
私は、言葉を失った。
次の瞬間、狂喜と、どうしようもない滑稽さが同時に押し寄せる。
たった一日で、私は驚愕し、悲しみ、怒り狂った。
それなのに今、心の奥で安堵している自分がいる。
――私の子。私のお腹の子は、私の子だ。
安堵のあと、すぐ疑問が湧く。
「じゃあ……父親は誰?」
私は銃を向けたまま問い詰める。
エヴァンスは口ごもった。
「言わないなら、撃ち殺してから、サンプルすり替えのスキャンダルを暴露する。家族ごと恥をかかせてやる」
もちろん嘘だ。私の手にあるのは模造品で、弾も入っていない。けれど、無力な医者を怯えさせるには十分だった。
エヴァンスは全身を震わせ、やがて泣きながら吐き出す。
「ダミアン……コステロ家のドンです」
「……ダミアン? そんなはずない」
私は彼と接点なんてない。どうして、そんな男を。
「本当です……」
エヴァンスは書類棚から同意書を取り出した。体外受精の同意書。その「父親」の欄に――確かに、ダミアンと書かれていた。
