第2章
イーサンの屋敷に戻った頃には、もう夕暮れだった。
私は大きく息を吸い込み、表情を整えてから扉を開ける。
リビングに目をやった瞬間、眉が自然と寄った。
ソファに座るイーサン。片手に粥の椀、もう片方にスプーン。隣に寄り添うソフィアの口元へ、やけに丁寧にそれを運んでいる。
ソフィアは淡いアイボリーのワンピースに身を包み、イーサンを見上げる眼差しは甘く、熱を帯びていた。
そして、向かいの席には義母。二人の様子を微笑みながら眺めている。――私に向けられたことのない、満足げな称賛の目で。
なんて、温かい家族の光景。
使用人が私に気づき、名を呼んだ瞬間、三人が同時にこちらを振り返った。
イーサンの顔に一瞬だけ気まずさが走る。だがすぐにいつもの仮面を貼り直し、椀とスプーンを置いて立ち上がった。こちらへ歩み寄りながら言う。
「帰ったのか。ソフィアが最近胃腸の調子が悪くてな、少し食べさせてただけだ。誤解するな」
ソフィアも立ち上がり、控えめに頭を下げる。声は柔らかく、いかにも弱々しい。
「オリヴィア、ごめんなさい。迷惑をかけちゃって……。私……流産してから、ずっと体調がよくなくて。イーサンは友人として、責任感で面倒を見てくれてるだけなの」
友人として。責任感で。……口まで運ぶほど?
青白く整ったその顔を見た途端、胃の奥から嫌悪がせり上がった。
三年。私は、二人の関係がここまで露骨になっていることに、まるで気づけなかった。――私こそ、盲目だったのだ。
「世話をするにしても、家に連れ込むのね」
口元だけで笑ってみせる。
「イーサン。私が前に熱を出したとき、あなたってそんなに丁寧だった?」
空気が、ぱきりと凍った。
義母が眉を吊り上げ、露骨に私を睨みつける。
「オリヴィア、言い方ってものがあるでしょう。ソフィアは私が小さい頃から見てきた子で、娘同然なの。具合が悪いなら家に来て休むくらい当然よ。あんたは田舎出の娘だから、躾がなってないのね!」
「田舎出の娘?」
私は小さく笑い、義母の薄い唇を見返した。
「出自がどうであれ、あなたたちが頭を下げて嫁に迎えたんでしょう?」
義母の顔がかっと赤くなる。勢いよく立ち上がり、指を突きつけた。
「お前の父親がイーサンの父親を救ったからよ! あの人が恩を感じて、無理やりイーサンにお前を娶らせたの! じゃなきゃ、誰があんたなんか――」
父の話が出た瞬間、胸の奥がぎゅうっと締めつけられた。
三年前。父は任務中にイーサンの父を助け、そして帰ってこなかった。
老主人は恩に報いるために、恋人同士だったイーサンとソフィアを引き裂き、私を嫁に据えた。
そしてイーサンは、奪われた恋と押しつけられた結婚の憎しみを――全部、私にぶつけた。
滑稽で、馬鹿げている。
ソフィアが無辜なら、私だって無辜だ。
「だから何?」
私は顎を上げ、冷たく言い捨てる。
「私が銃を突きつけて結婚させた? 気に入らないなら、離婚すればいい」
「何を言ってる!」
イーサンが鋭く遮った。目に苛立ちが滲む。
「オリヴィア、お前はどうしてそんなに話が通じないんだ? 母さんは性格が直なだけで、悪気はない」
またそれだ。
義母と揉めれば、彼はいつも「母さんは悪くない」という形で私に譲歩を強いる。私がこの家を守りたいと願っていた頃は、飲み込んできた。
でも今は分かる。あれは思いやりでも親孝行でもない。私を押さえつけるための言い訳だ。
「へえ。じゃあ私も性格が直いの。気にしないで」
「オリヴィアさん、やめて……」
ソフィアが目を赤くし、今にも泣きそうな顔を作る。
「全部私が悪いの。私、帰る……。私のせいで喧嘩しないで……」
鞄に手を伸ばした瞬間、義母が慌てて引き止めた。
「いい子ね、ソフィア。あなたのせいじゃないわ」
それから私を睨みつける。
「子どもも産めないくせに、口だけは達者! ソフィアを怯えさせてどうするの!」
イーサンも寄り添うように言った。
「そんなこと言うな。ここは君の家でもある。好きなだけ居ればいい」
その光景に、体の芯がすうっと冷えていく。
――この家で、よそ者は私。
私は何も言わず背を向け、二階の寝室へ戻った。ドアにもたれ、深く息を吸い込む。
そっと下腹に手を当てる。
この子のために。私は冷静でいなければならない。
三十分ほどして、寝室のドアが静かに開いた。イーサンが温かいミルクと小さな菓子皿を持って入ってくる。
「まだ怒ってるか?」
トレーをナイトテーブルに置き、抱き寄せようとする。
「母さんは年だし口がきついんだ。気にするな。ソフィアは体が弱いし、純粋で悪気はない」
近づいた瞬間、香水の匂いが鼻を刺した。ソフィアが好むブランドの残り香。
胃がぐるりと反転するように込み上げ、私は反射的に身を捻って離れ、口を押さえてえずいた。
イーサンの腕が宙で止まる。驚き、それから――目に喜びが灯った。
「オリヴィア……まさか、妊娠したのか?」
――だめ。今は知られたくない。少なくとも、今じゃない。
私は不快感を押し殺し、背筋を伸ばして視線を逸らした。
「違う。ただ気持ち悪いだけ。で、何か用?」
イーサンは疑うように私を見たが、追及せずベッド端に腰掛ける。
「話がある。ソフィアは静養が必要だ。しばらくここに住ませたい。どう思う?」
相談の形をしているだけで、拒否権など最初からない口ぶり。
――義父が出張に出て、まだ一週間も経っていないのに。もう、愛しい女を屋敷へ。体裁すら繕う気がないらしい。
私は顔色ひとつ変えずに言った。
「住むのは構わない。でも条件がある」
「条件?」
「来週のコステロ家の宴に、私も行く」
イーサンが目を見開く。
「お前、そういう社交の場は嫌いじゃなかったか?」
私は俯き、わざと弱く見せる。
「イーサン、結婚して三年よ。あなたが連れて行くのはいつもソフィアだけ。知らない人から見たら、彼女が奥さんに見えるわ」
効果はてきめんだった。
イーサンの疑念がすっと消え、代わりにどこか軽蔑すら滲んだ目になる。肩を軽く叩き、昔と同じ優しい声を装った。
「嫉妬するな。分かった、来週は連れて行く」
――これでいい。
私は淡々と頷く。
「疲れた。休むね」
「休め。ミルクは飲んでおけ」
イーサンが立ち去り、ドアが閉まった。
私は長く息を吐き、目を細める。
イーサン。ソフィア。
あなたたちが私に与えた欺瞞と屈辱は、必ず返す。
そして復讐の第一歩は――ダミアン・コステロ。
私の子の、本当の父親を見つけること。
