第4章
「些細なことだとは思わない」
ダミアンは私を見据え、深い眼差しのまま、礼儀正しく、それでいて抑制の利いた声で言った。
「この夫人の名誉に関わる」
ダミアンの登場で場の空気ががらりと変わり、イーサンの顔色がすっと沈む。
彼は、ダミアンが私を庇うなど想像もしていなかったのだろう。面子を潰された苛立ちがにじんだ。
「コステロさん。俺はこの目でオリヴィアがソフィアを突き飛ばしたのを見ました。俺はソフィアを信じます。彼女がオリヴィアを陥れるはずがない」
予想通りの台詞だった。彼は、決して私を選ばない。
私は鼻で笑い、鋭く言い返す。
「彼女を庇うためなら、平気で嘘をつくのね」
「嘘なんかじゃないわ」
ソフィアが唇を尖らせ、潤んだ大きな瞳からぽろぽろと涙を落とす。鼻をすすり、嗚咽混じりに言った。
「もし私があなたを陥れたなら、天罰が下ればいい」
「嘘かどうかは、監視カメラを見れば分かる」
――そうだ。ここには監視カメラがある。
私はダミアンへ視線を向け、短く頭を下げた。
「コステロさん、映像を確認させてください」
「構わない」
「待って」
ソフィアはまだ涙の跡を頬に残したまま、急に聞き分けのいい顔を作った。
「別に、謝ってほしいわけじゃないの。お姉さんが嫌なら、もう……いいわ」
「だめよ」
私は彼女の前に歩み寄り、しゃがんで目線を合わせる。
「お姉さんって呼ぶなら、委屈はさせない。私が悪いなら謝るだけよ?」
ソフィアの瞳に、刃みたいな光が一瞬走った。言い返そうとした、その瞬間。
ダミアンが静かに遮る。
「ソフィアさん。私の者が取りに行っている。少し待てば真実が分かる」
言い終えるより早く、使用人が記録媒体を持って戻ってきた。
映像は鮮明だった。私はソフィアの服の端にすら触れていない。
画面が暗転し、ソフィアの顔がかっと赤くなる。
いつの間にか、イーサンは彼女の肩に置いていた手を引っ込めていた。声の温度も落ちる。
「ソフィア……オリヴィアが本当に押したのか?」
「わ、分からないの……。お姉さんが横を通ったあと、急に眩暈がして……倒れたの。押されたと思って……」
ソフィアは泣き声を作り、ふらつきながらイーサンへ近寄る。
「子どもを失ってから、眩暈が増えて……。転んだとき足も捻っちゃって、それで……お姉さんを誤解したの……」
「誤解なら、ソフィアさんはオリヴィアさんに謝罪できるはずだな」
ダミアンの低く艶のある声が、言い訳を断ち切った。
――この人は、私のために筋を通している。
ソフィアは半分だけ顔をイーサンの胸に埋め、涙目で見上げる。
「イーサン……信じて。わざとじゃないの。ただ、つらくて……さっき眩暈のとき、私……私たちの赤ちゃんが見えた気がして……」
「泣くな。赤ちゃんが見たら心配する」
イーサンは痛ましさを目いっぱいに浮かべる。
「信じてくれる?」
「信じる」
彼は優しく肩を叩いた。ソフィアは鼻をすすり、落ち着いたふりをする。
小鹿みたいな瞳で、無表情の私を見つめた。私だけが血も涙もない悪役に見える構図。
イーサンはソフィアを抱き寄せ、そのまま連れて行こうとする。
「待って」
私はイーサンを呼び止め、真正面から目を合わせた。
「彼女、まだ私に謝ってないわ」
「ソフィアは足を捻った。病院に連れて行く」
「それが私と何の関係があるの?」
一歩も退かない。
「オリヴィア――」
イーサンが怒鳴りかけた、その声をダミアンが遮った。
「イーサンさん」
その目には、露骨な嘲りが浮かんでいる。
「夫として当然のことだ。君は君の妻の名誉を守るべきだろう」
その瞬間、私は思った。
――私の子の父親がダミアンでよかった。
イーサンは顔を歪め、ソフィアの腰に回した手が宙ぶらりんになる。
相手がダミアンなら逆らえない。自分を守るため、誰かを切る。そういう男だ。
「ソフィア。オリヴィアに謝れ」
ソフィアは信じられないという顔で自分を指し、甘えた声を出す。
「嫌よ……」
「言うことを聞け」
イーサンの声が硬い。ソフィアにそんな言い方をするのを、私は初めて見た。つまりそれだけ、ダミアンが怖い。
ソフィアは怯えた兎みたいに、渋々顔を上げる。
「……誤解してたわ。ごめんなさい」
私は首を傾げ、続きを待った。けれど落ちたのは沈黙だけ。
「誠意がないわね」
「まだ何を望むんだ!」
イーサンが噛みつくように言った。
私は淡々と返す。
「前に私があなたに濡れ衣を着せられたとき、あなたは私に跪けって言ったわよね。私、やり方が下手だったみたい。正しいお手本が見たいの」
「オリヴィア、調子に乗るな」
ソフィアはしゃくり上げ、またイーサンの胸に顔を押しつける。イーサンは彼女を庇い、肩を撫でた。
「怖がるな。俺がいる」
私は目を細める。
「私はその方法でしか謝罪を受け取らない」
イーサンの目が怒りで見開かれる。全身から刺すような殺気。
「オリヴィア! 誰かが味方したからって、好き放題できると思うな! ソフィアに跪けだと? 寝言は寝て言え!」
この場で堂々と愛人を庇う。恥の概念がないらしい。
私は黙って譲らなかった。
その膠着を、ダミアンの重い声が割った。
「……別の謝罪の方法もある」
彼は侍者に目配せする。運ばれてきたのは、ウイスキーのボトル一本。
ダミアンが指を鳴らす。意味は明白だった。
ソフィアの肩がびくりと震え、瞳が恐怖で揺れる。
「私、お酒は……」
首をすくめ、照明の下で涙がきらりと光った。
イーサンは彼女を抱きしめ、グラスを取る。
「俺が代わりに飲む」
ダミアンが眉を上げ、愉快そうに口角を吊った。
「本気か?」
イーサンの憎悪の視線が、ダミアン越しに私へ突き刺さる。
「俺の女は、俺が守る」
挑発する目。まるで世界中が二人の恋を邪魔していると言わんばかり。
――滑稽。
ウイスキーは強い。最後の一杯で、イーサンは足元がふらついた。ソフィアが彼の口元を拭う。濡れた手の甲が照明に光った。
イーサンは燃えるような目でダミアンを睨みつける。
「……これでいいだろ。もう行っていいか?」
ダミアンは私を見た。
「それはオリヴィアさんが満足したかどうかだ」
私は嫣然と笑う。
「満足よ」
騒ぎは、ひとまず幕を下ろした。
それから宴が終わるまで、あの二人を見かけることはなかった。代わりに、ダミアンが何度も私の前に現れる。そのたび、否応なく意識を奪われる。
今のうちに、子どものことを言うべきだろうか。
結局、決められないまま宴は終わった。
そして駐車場で、またダミアンが目の前にいた。まるで天が背中を押してくるみたいに。
「ダミアンさん。私、オリヴィアです。大事なお話があります。少しだけ時間を……三分でいいんです」
「お引き取りください」
護衛がすっと前に出て、私の行く手を塞いだ。
私はただ、彼が去っていく背中を見送るしかなかった。
