第5章
ダミアンは、想像していた以上に冷酷だった。
――なら、別の機会を探すしかない。
宴が終わり、どうやって帰ろうかと迷っていると、目の前にリンカーンのストレッチがすっと滑り込むように停まった。
運転席の窓が降り、イーサン付きの運転手がこちらを見る。
「奥様。旦那様の命でお迎えに参りました」
……今さら、そんな親切?
胸の奥に嫌な予感を抱えたまま車へ乗り込む。
三十分後、車は屋敷の玄関前で止まった。
そこに、背の高い影が立っている。ずっと待っていたみたいに――。
イーサン。
近づいてくる彼は怒気を隠そうともせず、唇をきゅっと結んだまま顔を真っ赤にしていた。酔いが抜けきらない浮浪者みたいな目。
「降りろ」
酒臭さが鼻を刺す。かなり飲んだらしい。
「近づかないで」
濃い酒の匂いに、胃がきりきりと持ち上がる。吐き気を押し殺した、その瞬間――イーサンが私の手首を掴んだ。
乱暴に車から引きずり下ろされ、玄関を越え、リビングへ。
力が強い。抵抗できない。せめて、と隙を見て小腹をかばう。子どもだけは守らなきゃ。
「お前、どうやってダミアンと知り合った?」
「ダミアン? 何の話よ。意味が分からない」
わざと欠伸をして、話を切り上げる。
「疲れた。寝る」
イーサンが目を見開いたまま固まる。
その顔が可笑しくて、胸の奥がすっと晴れた。吐き気すら少し軽くなった――そのとき。
背後から、甘く掠れた声。
「オリヴィア姉ちゃん」
振り向くと、ソフィアが肩をすくめながら立っていた。杖をつき、階段の段差に片足をかけたまま、びっこを引いている。頬には涙の跡。怯えた子どもみたいな表情で、しゃくり上げる。
「イーサンと喧嘩しないで……全部、私が悪いの。お姉さん、私に跪けって言ったよね? 今、跪く。だから……二人、仲良くして……」
そう言って、膝を折った。
「やめて。そんなの、私には受け止められないわ」
左へ一歩避ける。するとソフィアも、泣きも騒ぎもせず、同じ方向へずるりとにじり寄った。
「心から謝ってるの」
膝が床板に当たり、コツン、と乾いた音が響く。頭を垂れ、腰を折って、ぶつぶつと何かを唱えるみたいに口を動かしていた。
私は冷たく言う。
「あなたの『本気』って、いくらの価値があるの?」
「オリヴィア、いい加減にしろ!」
イーサンが顔を歪めて怒鳴り、ソフィアをそっと引き起こした。抱き寄せる腕は妙に丁寧で、私を見る目だけが剥き出しの怒りに染まる。地獄から這い出てきた怨霊みたいに。
「足がまだ治ってないのに、そこまで虐めるか? そもそも全部がソフィアのせいじゃない。やり過ぎだ!」
彼は私に背を向けるようにして、ソフィアの肩を支える。少しでもぶつけないよう、神経質なくらい慎重に。
「自業自得でしょう。私に何の関係があるの」
罠にかけなければ、足を捻ることもなかったはずだ。
「謝っただろ!」
通じない。噛みつく相手を選ばない狂犬。
私は腕を組み、壁に背を預けて首を振る。
「それが謝罪?」
イーサンのこめかみがぴくりと跳ね、歯ぎしりがぎり、と鳴った。
「オリヴィア……彼女を追い詰めて、何がしたい!」
「これが追い詰めるって?」
私は鼻で笑い、彼の横をすり抜ける。
すれ違いざま、吐き捨てた。
「言っとくけど――こんなんじゃ、全然足りない」
欲しいのは跪きじゃない。
二人まとめて、逃げ場のない地獄へ落ちることだ。
……
私が取り合わなかったせいで、イーサンの面子は潰れたのだろう。彼は階段を上がってきたが、寝室のドアを閉め、外に締め出した。
たった一日なのに、お腹の子が少し大きくなった気がする。
もう先延ばしにはできない。時間が経てば、妊娠は隠しきれなくなる。離婚は待ったなしだ。
考え事が頭から離れず、その夜はほとんど眠れなかった。
翌朝。エヴァンスを逃がさないため、事前に連絡は入れず、直接病院へ行って診察室前で待った。
十分ほどして、ドアが開く。
入ってきたエヴァンスは私を見るなり固まり、反射的に引き返そうとした。私は一気に距離を詰め、彼の腕を押さえる。
「エヴァンス先生。お願いがあるの」
「な、何を……」
声が上ずり、足元がふらつく。腰が机の角にぶつかって、ガン、と鈍い音。
私は手を差し出し、要点だけを言った。
「体外受精の同意書を出して」
「な、なんでそんな……」
全身を震わせ、半身をドアの近くに残したまま固まっている。
「理由はあなたが気にすることじゃないわ」
ハンドバッグを開け、手を入れかけた瞬間――エヴァンスが青ざめて引きつった。慌てて引き出しを開け、書類を掻き回す。
私の忍耐が切れかけたころ、ようやく封筒を差し出してくる。
私は眉を上げ、無言で促した。
エヴァンスは何度も頷き、怯え切った顔で言う。
「銃は……銃はやめてください。暴発したら――」
情けない。
私は封筒をひったくり、中身を確認する。確かに、以前見た同意書だった。
視線を上げると、エヴァンスは目を合わせようとしない。
「今日、私がここに来たこと――」
私が口にする前に、エヴァンスは両手を上げた。顔色は紙みたいに白く、頬の肉がぶるぶる震えている。
「誰にも言いません! 絶対に!」
言うはずがない。言えば、彼が死ぬだけだ。
封筒をバッグにしまい、私は車で会社へ向かった。
この同意書があれば、イーサンを訴える材料になる。たとえ身ひとつで追い出されても、私は必ずこの牢獄から出る。
結婚してから、会社に足を踏み入れたことは一度もない。
受付は私を見た途端、明らかに動揺した。
「奥様……?」
「イーサンは?」
受付は目を上げられないまま、緊張した声で答える。
「上で会議中です。いま、お電話を――」
「いい。私が行く」
「奥様……」
呼び止める声が引っかかる。私は足を止めた。
「何?」
「い、いえ……何でもありません」
受付は慌てて手を振り、妙に目配せをした。
理由を推し量る時間はない。私はエレベーターへ向かい、そのまま上階へ。
会議室の前を通りかかったとき、ドア越しにイーサンの声が刺さった。冷たくて、どこか貪欲な響き。
「今回、いくら回せる?」
「1億なら問題ありません」
「2億……」
断片だけで十分だった。
――イーサンは裏で金を洗っている。
神様。こんな形で味方をしてくれるなんて。
これは、彼を叩き潰す切り札になる。ただし、私ひとりでは足りない。協力者が必要だ。
会議室の中で椅子が引かれる音がした。
私はイーサンのオフィスへ入ってドアを閉め、何事もなかった顔で彼が戻るのを待つ。
やがて、ドアが開く。
イーサンは口元に薄い笑みを貼りつけていた。まるで昨夜のことなどなかったかのように、馴れ馴れしく私の肩を抱こうとする。
「来るなら言ってくれればいいのに」
「忙しいんでしょう」
「忙しくても、君の顔は見られる。で、用は?」
「たいした用じゃないわ」
私はさりげなく身を引き、触れさせない。
ふと目に入ったのは、机の上に置かれた今月の行程表。そこに書かれた予定が、ある人物を連想させた。
私は振り返り、イーサンに尋ねる。
「このカジノ、どんな人が出入りしてるの?」
