第6章

こういう公の場所に出入りすることなんて、私はほとんどない。

けれど、イーサンがわざわざ予定帳に書き込んでいたカジノだ。――きっと、ただの遊び場じゃない。

イーサンが眉を吊り上げ、棘のある声で問い返してくる。

「聞きたいのは俺か? それともダミアンか?」

「……じゃあ、本当に来るの?」

私は、彼の言葉に混じった敵意にまるで気づかなかった。

次の瞬間、顎に鈍い痛みが走る。イーサンの指先が食い込み、まるで顎をへし折るみたいに力を込めてきた。

「やっぱり聞きたいのは、そいつなんだな」

私は両手で彼の手首を押さえ、引きはがそうとする。しばらく拮抗したあと、苛立ちが先に勝った。

「聞いちゃいけないわけ?」

イーサンは失望したように俯き、唇を私の耳元へ寄せる。

「……お前が他の男のことを考えてるの、俺は嫌いだ」

吹き出しそうになった。

イーサンは、相変わらず欲深い。

「女を家に連れ込んでるくせに、私が他の男のことを聞いたらダメなの? それに……この前の宴で助けられたお礼、ちゃんと言ってない」

イーサンが一瞬だけ固まる。私はその隙に、彼の腕からするりと抜け出した。

触れられたくない。これ以上、乱暴にされるのもごめんだ。

私は挨拶すらせずに扉を押し開け、外へ出た。

車のドアを開け、運転席に滑り込む。なのに、エンジンをかけられない。頭の中には、ダミアンの顔ばかりが浮かぶ。

あの声が耳に残る。私の勘が外れていなければ――ダミアンは来る。

ざっと調べただけでも、そのカジノは30年以上の歴史があるらしい。代々のマフィアが、退屈しのぎに通った場所。

――チャンスだ。

私は体外受精の同意書が入った書類袋を、ぎゅっと握りしめた。

今度こそ、ダミアンに真実を告げる。そして、イーサンを叩き潰すのに手を貸してもらう。

……

カジノへ行く当日、私はわざと薄いメイクだけにした。動きやすいように黒のパンツスーツ。髪は適当にまとめて耳の後ろへ流す。

化粧をする私なんて、イーサンは滅多に見ない。たぶん、私だと気づかない。

場内は人でごった返していた。イーサンに鉢合わせする心配もほとんどない。あの男が、ダミアンの近くに居座れるはずがないから。

十分ほど探して、ようやく――人の少ない隅の席にダミアンを見つけた。

ひとり用のボックス席。脚を大きく開き、ソファに背を預けている。黒いシャツのボタンは三つ外れていて、腹筋が薄暗がりに浮かび上がっていた。

照明が横顔を柔らかく削り、骨ばった冷たさを少しだけ薄めている。……それでも、優しいなんて錯覚でしかない。

右手には赤ワインのグラス。なぜか湯気が立っていた。

そして――彼の股の間には、金髪碧眼の男が跪いている。震えながら俯き、唇だけが何かを必死に動かしていた。何を言っているのか、聞き取れない。

私が近づくと、ダミアンは足を上げ、男の肩を踏みつけた。

次の瞬間、熱い赤ワインが男の頭から容赦なく注がれる。

「ぎゃああっ!」

悲鳴は周囲の喧騒にかき消される。赤ワインが頬を伝い、男は熱さに息を吸い込むことすらままならない。

ダミアンは身をかがめ、軽く男の頬を叩いた。声音は淡々としていて、まるで映画の感想でも述べているみたいだった。

「裏切りの代償だ」

呼吸が詰まる。

甘ったるい湯気の匂いに胃が反射し、吐き気がこみ上げた。

太い手が私の腕を掴む。

「誰だ、お前。ここで何してる」

「ダミアンに会いに――」

言い終える前に、男は私を引きずるようにして連れていき、ダミアンの前へ押し倒す勢いで突き出した。

「放して」

私は、ダミアンに跪くつもりはない。

ダミアンが顔を上げる。深い瞳が、波紋みたいに揺れた。獲物を見つけた豹の目。

彼は私の横の男へ指をくいっと曲げた。

「放せ」

腕が解放され、私は肩をさすった。痛みが引くより早く、私はダミアンに牛皮紙の封筒を差し出す。

「私、妊娠したの」

ダミアンは眉を上げる。意味が分からない、という顔。

私はそのまま言い切った。

「あなたの子よ。これ、検査結果」

追い返される覚悟はできていた。けれど、彼は驚くほど冷静だった。

……たぶん、面白がっているだけ。

ダミアンはまたソファに深く座り直し、両手を軽く広げ、首を傾げて私を値踏みする。

「俺たちが初めて会ったのは、前回の宴だったはずだが」

「そうよ」

ダミアンが低く笑う。その嘲りは針みたいに皮膚の奥へ刺さった。

「じゃあ、どうやって俺の子を孕んだ?」

羞恥が一気に込み上げ、今すぐ立ち去りたくなる。

それでも――彼は、この子の父親だ。離婚するにも、復讐するにも、彼の力が必要。

私は賭けるしかない。

封筒を開け、中の書類を彼の前に立てた。

「サンプルを取り違えたの。だから、私が妊娠したのは……あなたの子」

言い終えた瞬間、周囲の空気がすっと沈んだのが分かった。

ダミアンは目を細める。闇に潜む狩人みたいに、獲物を静かに観察する目。

私は唾を飲み込み、緊張を押し殺す。心臓が耳元で鳴っているみたいだった。

ダミアンが信じないなら、エヴァンス先生を連れてくるしかない。

――あの役立たずが、ここで腰を抜かさないことが前提だけど。そんな醜態を晒したら、ダミアンは「私が用意した芝居」だと決めつけるだろう。

──ダミアン視点

先月、病院でサンプルを提供したのは事実だ。

だが、出来すぎている。

面識もない女が、医者のミスで俺の子を孕んだ? ――よくもまあ、そんな話を平然と持ってくる。

俺は彼女の差し出した検査結果を受け取り、ざっと目を通した。

「この紙が本物だと、どう証明する」

「命にかけて誓う」

「命?」

哀れなくらい、甘い。

俺は手を伸ばし、彼女の耳の後ろに指を添えて顔の向きを変える。床に這いつくばり、虫の息の金髪男を見せた。

「あれが見えるか。裏切った。だから半殺しだ。女でも同じだ」

頬を寄せ、わざと囁く。

「それでも、この子が俺の子だと言い切れるか?」

「騙す理由がないわ。報告書を見れば――」

「報告書?」

俺はわざと素知らぬ顔で紙に視線を落とし、横目で彼女の表情を盗み見る。

「医者の知り合いがいれば、書類の偽造なんて簡単だ。知ってるだろ」

彼女は苛立ちを露わにした。だが、必死に弁明しようともしない。

まるで目的はひとつ――『妊娠した』と俺に伝えることだけ。

「信じるかどうかは好きにして。私は、あなたに知る権利があると思っただけ。……父親なんだから」

「じゃあ、俺が関わらなくても問題ないな?」

女は黙った。目だけが悔しそうに揺れる。

俺は立ち上がり、距離を詰める。顎を持ち上げ、視線を合わせた。

「この前、車を止めたのもこれか?」

「そうよ」

即答か。

俺は指の腹で、彼女の眉と目尻の輪郭をなぞった。

「嘘をつけない目だな」

オリヴィアが俺の手を掴み、焦ったように尋ねる。

「……じゃあ、信じてくれたの?」

「紙切れ一枚で、どう信じろと?」

俺は彼女の耳元で、笑いを落とす。

「俺と関係を持ちたがる女は山ほどいる。手段もいろいろだ」

「私は嘘をついてない」

「嘘かどうかは、すぐ分かる」

俺は報告書を手元に残し、彼女がまだ立ち去らないのを見て言った。

「妊婦はさっさと帰って休め。車を出させる」

オリヴィアを外へ向かわせてから、俺は報告書を改めて一行ずつ確認した。

「……妙に出来がいいな」

ライトが覗き込み、俺を見る。

「ボス。調べますか」

「当然だ」

俺は紙を指で弾き、淡々と命じる。

「この報告書だけじゃない。女の素性も、全部洗え」

――目的を確かめる。

こいつが俺に近づいた理由を。

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