第8章
きっと――勘づかれた。
だめ。絶対に、妊娠だけは知られるわけにはいかない。
私は腹に力を入れ、下腹のわずかな変化さえ悟られまいと身構える。
わざと口元を大きく崩し、乾いた笑い声まで乗せた。
「子どもが欲しすぎて頭おかしくなった? 次の健診なんてあるわけないでしょ。私が妊娠して、産婦人科に通ってるとでも思ってるの?」
イーサンは一瞬、面を食らったように目を瞬かせた。険しく寄っていた眉間がほどけ、戸惑い混じりに問い返してくる。
「体外受精は失敗したんだろ? なら、ずっと通うはずじゃ……」
「やめたの」
イーサンの間の抜けた顔――どうやら信じたらしい。このバカ。
念を押すように私は彼の手を振りほどき、胸を張って横をすり抜けた。
「私、子どもを産むための機械じゃないの。だいたい、もうダミアンと一緒なんだから、あなたの子なんて産めるわけないでしょ」
「オリヴィア!」
イーサンの声が跳ね上がる。
「俺の我慢を試すな。俺は許してやると言ってる。感謝して、言うことを聞け。今すぐだ」
苛立ちに任せて、彼はスマホを掴み、あの医師へ電話をかけようとした。
私は声を落として釘を刺す。
「忠告しとく。あの医者はもう“警告”されてるわ。ダミアンに目をつけられてもいいなら、かければ?」
コステロ家の看板はやはり効く。ダミアンが医師に圧をかけた――その噂を思い出したのか、イーサンは悔しそうにスマホを下ろした。
しばらく沈黙が落ちる。
私が立ち去ろうとした瞬間、彼は私の腕を掴み、妙に低姿勢な声で言った。
「子どもを産まなくてもいい。せめて体だけは診てもらえ。体外受精は体に負担がかかるって聞いた。俺は心配なんだ」
……急に優しくなる。
これで昔みたいに、私が丸め込まれると思ってるの?
結局、私が制御できない存在になったから、懐柔したいだけ。
本当なら断りたい。けれど、まだこの家から完全に抜けられていない。
私は小さく頷いた。
「分かった。でも、病院は私が選ぶ」
時間稼ぎになる。
イーサンは私が行かないことを恐れたのか、即答で頷き、歩み寄って私を抱きしめた。耳元で、甘い声を囁く。
「オリヴィア、俺のいちばん愛しい女。お前が俺のそばにいるなら、何だって許してやる」
――つまり、ダミアンの件も気にしない、と?
「ずいぶん寛大ね」
私は抱擁からすり抜け、彼の背後にいる女へ顎をしゃくって見せた。
「でも私は、夫の浮気は許せない」
イーサンは私が妊娠していないと信じている。だからこそ、私に子どもを産ませたがる。好都合だ。これで引き延ばせる。
私は淡々と言う。
「体外受精を続けさせたいなら、まず外の女たちの始末をつけて」
イーサンを押しやるようにして、ソフィアの横へ追いやり、私は背を向けた。
あんなに頭の切れる男だ。すぐに、私が誤魔化していると気づく。時間がない。
弁護士へ連絡を済ませたところで、ダミアンから電話が入った。
コステロ家の番号は、ひと目で分かる。あの一家だけの区番号。
「コステロさん」
受話口の向こうで、ふ、と短い笑い声。冷たく、距離があるのに――それだけで人の心を攫う声音。
なるほど。あれほど女が群がるわけだ。コステロ家の財と地位だけじゃない。ダミアンという男自体が、望まれる運命にある。
「時間あるか。会おう」
断る理由は、ない。
「迎えを出す」
車で向かう道中、胸の奥がざわついた。私はダミアンの流儀を知らない。でも確信できることがある。
彼が子どもを望むなら、喜んで子を宿す女はいくらでもいる。
――もし、私の子を邪魔だと思ったら?
強引に堕ろさせるつもりだったら?
車に乗ったことを後悔しかけた、そのとき。
運転手がミラー越しに私を見て言った。
「オリヴィアさん、到着しました」
引き返せない。弓を引いた矢は戻らない。
私は腹の奥の震えを押し込み、ダミアンに会うために足を進めた。
邸宅へ入るなり、私はソファの右側に座る男へ視線を吸い寄せられた。
ダミアンは人差し指と中指の間に、燃え尽きかけた煙草を挟んでいる。濃い煙の匂いが鼻を刺し、涙腺がつんと痛んだ。危うく目に出るところだった。
私は堪えながら言う。
「コステロさん。私、妊娠してるの」
ダミアンはゆっくり意識をこちらへ戻し、薄く笑ってみせた。
「悪い。忘れかけてた」
手招きされ、私は従うしかなく彼の隣へ腰を下ろす。
その瞬間、ようやく気づいた。彼の周りに、白衣の女たちが何人も立っている。器具やケースを抱え、動きは手慣れていて、異様に“専門的”だった。
嫌な予感が背筋を撫で上げる。ダミアンが口を開く前に、私は先に言葉を叩きつけた。
「コステロさん。あなたは、この子がいなくても困らないはず。もし認知してくれるなら、それが一番いい。でも、望まないなら私が一人で育てる。あなたに迷惑はかけない」
両手で下腹を守り、視線を逸らさず続ける。
「だけど、堕ろさせるつもりなら――まず私を殺して」
ダミアンの瞳に、わずかな興味と……賞賛? そんな光が宿った。
どうして、そんな顔をするの。
理解する前に、ダミアンが立ち上がり、私の手を取った。部下へ目配せし、右手の固く閉じた扉を開けさせる。
中に並ぶ医療機器を見て、息が止まった。
「これは……」
「俺の私設クリニックだ。お前の言葉だけを鵜呑みにする気はない。俺が確かめる」
「嘘なんてつかない。疑うなら帰らせて。私が最初からいなかったことにして」
「黙れ」
ダミアンが頬へ触れるほど近づく。声は甘く、溺れそうに優しい――なのに、底に冷たい刃がある。
「この話を俺に持ち込んだ時点で、子どもの生死はお前の手を離れた。……その前にまず、お前が本当のことを言ってるのか見せろ」
肩に置かれた手は柔らかいのに、私の体は氷みたいに固まった。
最初から、彼はこの子を残す気なんてない――そう思ってしまう。
でも、今の私にできるのは従うことだけ。
ただ、その前に確認しなきゃいけない。私と、この子を傷つけないと。
「検査の同意書が必要よ。私の体、あるいはお腹の子に何かあったら、その責任はあなたが負うって」
「条件を出せる立場じゃない」
ダミアンは冷えた表情のまま検査着を差し出した。
「二度言わせるな」
私は医師に連れられて処置室へ入った。胸がざわめいて、呼吸が浅くなる。
ダミアンはN市で名の通ったマフィアのボス。女ひとりを乱暴に扱わないと信じたい――だけど、信じる理由にはならない。
羊水検査は、想像以上に痛かった。
じわり、と汗が噴き出し、服が肌に貼りつく。胃の奥がひっくり返り、こみ上げる吐き気を抑えきれない。
二十分ほどで、ようやくDNAが採取された。
私はダミアンのそばへ戻され、結果を待たされた。
針の筵。落ち着かないまま、横目で彼を見る。
冷たい顔。父になる男の昂りなんて、どこにもない。
胸の奥の石が、ずぶずぶと沈んでいく。鼻の奥がつんとして、体が勝手に震えた。
「コステロさん」
深く息を吸い、声が揺れないように努める。
「……本当に、堕ろすつもりなの?」
ダミアンは指先の煙草を揉み消し、面白がるように口角を上げた。
「子どもは最初から、俺の計画にない」
全身が戦闘態勢になる。お願いする言葉を絞り出そうとした、その瞬間。
バッ、と病室の扉が開いた。
医師が検査結果の紙を持ち、ダミアンのもとへ急ぎ寄る。
「コステロさん。結果が出ました。あまり良くありません」
