第1章 彼女が帰ってきた、私たちは離婚しよう
「――離婚しよう」
黒崎逸臣が言った。
床まで届く大きな窓の下で、夏目霧子はうつむき、黒崎逸臣が首にかけたダイヤモンドのネックレスを指先でいじっていた。その言葉に、手がぴたりと止まる。
彼は淡々と続ける。
「3年だ。期限は来た。菜々美が戻ってきた」
胸を刃物で貫かれたみたいだった。痛みで目の奥が熱くなり、涙が滲む。
水野菜々美。黒崎逸臣の高嶺の花。新婚初夜、彼ははっきり言った。――この先、心にいる女はひとりだけだ、と。
「……なるほど。これが私の誕生日プレゼントってわけね」
夏目霧子は笑う形のまま、そう口にした。
結婚して3年。黒崎逸臣が誕生日を祝ったのは、今日が初めてだった。
首元の豪奢なダイヤは、氷の塊みたいに重い。喉を圧迫され、息が詰まりそうになる。
黒崎逸臣は少し距離を取り、彼女を眺めた。
「泣いてるのか?」
「ええ」
こらえきれない涙を、夏目霧子はもう止めなかった。ぼろぼろ落として、痛いほど流し切る。
それでも口元だけは、笑う形を保っていた。
「嬉しいの。やっと自由になれるから」
黒崎逸臣は複雑な顔で見つめ、信じていない様子だった。
夏目霧子は気にせず彼を押しのけ、長いテーブルの端に腰を下ろす。
「条件、言って」
黒崎逸臣が向かいに座る。さっきまでの柔らかさは消え、いつもの冷淡で距離のある表情に戻っていた。
「金、車、家、仕事、コネ……」
夏目霧子は黙った。
沈黙が続くと、黒崎逸臣のほうから言った。
「イラストレーターになりたいんだろ。出版も、個展も……手伝える」
夏目霧子は小さく笑った。
「知ってたんだ」
この結婚のために仕事を捨て、3年、家庭に収まった。けれど結局、欲しかったものは何ひとつ手に入らなかった。
黒崎逸臣が眉をひそめる。皮肉を含んだ口調が気に食わないらしい。
「で、何が欲しい」
夏目霧子は強くまばたきして、最後の涙を押し出す。視線を合わせ直し、声を冷やした。
「黒崎グループの株を5%」
黒崎逸臣の顔が一気に沈む。
「霧子、欲張りだ」
「そうだね。最初から金目当てで嫁いだんでしょ?」
夏目霧子は肩をすくめた。テーブルの下、爪が掌に食い込むほど握りしめ、胸の奥の痛みを押し殺す。
「お金は使えばなくなる。車も家も価値が落ちる。仕事? 3年も主婦だった私に何ができるの」
「でも株は違う。毎年寝てても配当が入る。あなたの腕なら、会社を潰すなんてまずない」
黒崎逸臣の機嫌は露骨に悪くなり、怒りが空気を重くする。
「出し渋るの?」
夏目霧子が眉を上げる。
「菜々美のためなら、それくらいの補償――迷わず出すべきじゃない?」
「……彼女の名前を出すな」
黒崎逸臣の声が、低く脅すように落ちた。
心臓の奥を、また踏み潰されたみたいに痛む。何を言っても無関心なくせに、菜々美のことだけは即座に庇う。
「早くちゃんとした肩書きをあげられるようにでしょ。『浮気相手』ってバレたら恥ずかしいもんね?」
黒崎逸臣の目が鋭く光る。
「俺が既婚だと知ってる人間はいない。外がどうして彼女を浮気相手扱いする? お前、脅す気か」
「まさか」
夏目霧子は笑ってみせた。
「そんなに焦るなんて……妊娠でもした?」
言い終えた瞬間、胃の奥がむかっとせり上がる。彼女は身体を横に向け、えづいた。
「霧子!」
黒崎逸臣の額に青筋が浮く。適当な噂を流された、とでも思ったのだろう。
――演技が上手い。
夏目霧子は心の中で拍手してやった。
菜々美の挑発的なメッセージは、もう届いている。産婦人科の診断書には、「胎児の発育は順調」とまで書かれていた。それでも彼は、何もないふりをする。
「10億出す」
離婚協議書が、彼女の前に置かれた。最初から用意してあったものだ。
「他に欲しいものがあるなら、離婚届を出すまでなら言え。ただし株は無理だ」
言い終える前に、黒崎逸臣のスマホが鳴った。
電話に出た途端、声がやわらかくなる。――他の女には、そんなふうに優しくできるんだ。
夏目霧子は静かに聞いていた。彼が「今すぐ行く」と言って立ち上がり、手早く上着を羽織る。
「署名はした。お前も早く」
男の背中は風のように消え、レストランには夏目霧子ひとりだけが残る。
離婚協議書の最後の署名は、紙を突き破るほど強い筆圧で――まるで頬を叩かれたみたいだった。
夏目霧子は内容を最後まで読み、紙を折ってバッグへしまい込み、署名はしなかった。
こんなふうに、簡単に折れる気はない。
スマホを取り出し、電話をかける。
「石井先生。前に頼んだ件、結果は?」
「産婦人科の診断書は本物だ。病歴番号で院内システムに同じ患者がいる。ただ、名前は消されてた」
石井が言う。
胸が、また疼いた。
――徹底して守るんだ。病院ですら本名を使わない。
「推定の妊娠時期は……」
石井が日付を告げる。
その頃、黒崎逸臣は確かに出張していた。
「ただ、子どもの父親までは――さすがに調べられない」
石井が申し訳なさそうに言う。
夏目霧子は笑った。
「大丈夫。調べなくていい。黒崎逸臣が、愛してる女に他人の子を孕ませるわけない」
「それで……」石井の声には同情が混じる。
「診断書を1枚作って。病名は適当でいい。私が不妊で、治療不可ってことにして」
夏目霧子はきっぱり言った。
「そうすれば、黒崎昌仁も私を手放すしかなくなる」
「できる。でも……」石井が息をのむ。「君、今もう妊娠してるだろ。黒崎逸臣にも黒崎家にも言わないのか?」
「これは私の子。私がいればそれでいい。父親がいるかどうかなんて、どうでもいい」
それは、今日思いついたことじゃない。
たった1時間前――約束の場所へ向かう途中、都心で逆走車に轢かれかけた。ぎりぎり避けたものの膝を擦りむいた。事故だと思った。
けれどその車はUターンして、再び突っ込んできたのだ。
巡回中の警官が通りかからなければ、死んでいた。
震える手で黒崎逸臣に電話した。出たのは水野菜々美だった。「今、お風呂」と。
今夜、黒崎逸臣は誕生日を祝うために時間通りに現れた。希望も、贈り物も、そして――離婚協議書も、全部まとめて差し出した。
夏目霧子はテーブルの赤ワインを飲み干し、家へ戻り、荷造りを始めた。
