第2章 まさか妊娠してるのか?
大して持っていくものはない。ここ数年で描いた絵だけ。ブランド物の服だのバッグだのは、所詮ただの身の回り品にすぎない。
夜更け――黒崎逸臣が帰ってきた。
ベッドの端に呆然と座り込む夏目霧子と、床に開け放たれた二つのスーツケースを見た瞬間、黒崎逸臣の顔色が沈んだ。
「何してる」
「荷造り。出ていく準備」
「まだ署名してないだろ」
黒崎逸臣は眉を寄せる。
「離婚届も出してない。何を急いでる? 俺から離れたいのか」
――急いでる?
線を引いたのは、そっちでしょう。
夏目霧子は口元だけで笑った。
黙っていると、黒崎逸臣の眉間の皺がさらに深くなる。
「おじい様のほうはまだ知らない。お前が出ていったら勘づく」
今さら、まだ芝居を続ける気。
夏目霧子は唇を動かした。
「おじい様が私が引っ越したことを知るわけないでしょ。誰かが言わなければ――」
その言い返しが決定打だったのか、黒崎逸臣の機嫌は底まで落ちた。
「どうしても行くなら、林田陽向のところへ行きたいんだろ」
夏目霧子は硬直した。
――なんで、そこでその名前が出てくる?
けれど、もうすぐ離婚だ。説明する価値もない。
彼女は目を閉じ、わざと笑ってみせた。
「いいよ。じゃあ株をちょうだい。そうしたら、あなたの言うこと全部聞く。完全に協力する」
「霧子」
黒崎逸臣の声に、我慢の糸が見えた。
「俺はもう言った――」
言い終える前に、スマホがまた鳴る。
案の定、水野菜々美だった。
甘ったるい女の声が耳に入っただけで、胃の奥がひっくり返る。
夏目霧子はトイレへ駆け込み、便器に向かってえづいた。
朦朧とする意識の向こうで、黒崎逸臣の優しい慰め声が聞こえる。
……もう覗き見する気力もない。さっさと消えてほしい。
ところが通話を切ったあと、彼は背後へ来た。
心配じゃない。怒りの色を宿した目。まるで彼女の吐き気が演技だと言わんばかりに、冷たく言う。
「霧子、どういうつもりだ」
鏡の前で顔を洗いながら、夏目霧子は答えない。何の話かも分からない。
「喋れ」
苛立ったのか、黒崎逸臣は腕を掴み、無理やり顔を上げさせた。
「電話で菜々美を脅したのか?」
夏目霧子は呆然とした。いつ脅した?
吐き気に混じって、怒り、絶望、無力感が押し寄せる。説明する力すら残っていない。
「電話で罵っただけじゃなく、人をやって家の窓ガラスを割らせたって?」
黒崎逸臣はスマホを突きつけた。
画面には暗い動画。撮影者は窓の陰に隠れている。外の通りにはガラの悪い若い男たちがいて、水野菜々美を浮気相手だと罵り、石を投げる。
ガシャン――ガラスが砕け散った。
夏目霧子は目を見開いた。
「違う! 離婚するのに、なんで私が彼女に絡むの? それに住所だって知らない!」
「じゃあこいつらはどこから来た。あんな言い方をするのは、お前以外に誰がいる」
唇が震える。夏目霧子は顔を上げた。
「いいよ。通報して。今すぐ私を逮捕して。証拠があるなら牢屋に入れてみなよ!」
「喧嘩はしたくない」
黒崎逸臣の声は氷みたいに冷たい。
「霧子。株以外なら何でも聞く。だが、くだらない小細工はやめろ。自分の立場をわきまえろ」
バタン!
玄関のドアが容赦なく鳴った。
車の音が近づいて、遠ざかって、すぐに消える。
――また菜々美のところへ行った。
夏目霧子はベッドに崩れ落ち、目が虚ろになる。
昔は、彼の心が欲しかった。自分に向けてほしかった。
今も欲しい。いっそ心臓を抉り出して見せてほしい。どこまで残酷になれる人間なのか。
今回はもう戻ってこないだろう。
悲しみも絶望も、体力を食い尽くしていた。倒れ込むと、そのまま眠りへ落ちた。
――
翌日昼。
荷物を持って外へ出て、安全性が一番だと謳うホテルに入った。
黒崎逸臣から連絡はない。夕方になってようやく着信が来たが、出たくない。
するとすぐ、黒崎昌仁から電話が入った。夕食に来い、と。
場所は都心。時間がかかる。
部屋に入ると、黒崎逸臣はすでに来ていた。夏目霧子を見るなり、責めるように言う。
「なんで電話に出ない」
「何をそんなに怒っておるんだ」
ソファの黒崎昌仁が湯吞みを置き、不機嫌に睨んだ。
「お前だって携帯が鳴っても気づかんこと、ようあるだろうが」
「会議中で……」
黒崎逸臣は渋々声を落とす。
「黒崎社長もさっきお忙しかったんでしょう?」
夏目霧子は掌に爪を立てながら、平然と笑って座り、熱い湯を注いだ。
痛みは麻痺していた。だからこそ冷静に――完璧に演じられる。
「どういう意味だ」
黒崎逸臣が目を細める。脅しの色。
黒崎昌仁も首を傾げた。
「さっき逸臣は何を忙しくしとったんだ?」
――愛人の相手に決まってる。
夏目霧子は笑ってみせる。
「おじい様、冗談です。最近この人、すごく忙しくて。外で誰と一緒なのかも分からないくらい。私といる時間、全然ないんです」
「客先だ」
黒崎逸臣が言う。
夏目霧子は気づかないふりで、さらに告げ口する。
「おじい様、そのお客って誰ですか? 週末も会うし、夜も会うし、時々は夜中にも会うし……仕事の鬼なら、客も仕事の鬼なんですか?」
含みのある笑みで黒崎逸臣を一瞥する。
「私、すごく不安です」
黒崎昌仁は当然気づいて、黒崎逸臣を睨んだ。
「逸臣、どういうことだ。最近そんなに忙しいのか」
「……もうすぐ片づく」
黒崎逸臣は間を置き、夏目霧子に問う。
「どうすれば不安がなくなる?」
「さあ」
夏目霧子は意味深に言った。
「お金じゃ無理。たぶん……株なら効くかも」
「株が効くのか」
黒崎逸臣が問い返す。
夏目霧子はすぐ笑顔になる。
「おじい様、逸臣が会社の株を私にくれるって。そうすれば心変わりを怖がらなくていいって。私、もらうのが申し訳なくて」
「何が申し訳ない!」
黒崎昌仁が机を叩く。
「わしが決める、受け取れ!」
にこにこと夏目霧子へ笑みを向ける。
「こいつは不器用だ。お前も苦労しただろう。株は持っておけ! 遠慮はいらん!」
「ありがとうございます、おじい様」
夏目霧子は甘く呼び、黒崎逸臣へ視線を送る。
「じゃあ来週の月曜、会社で契約にサインしてもいいですか、黒崎社長?」
黒崎逸臣は短く「……ああ」と答え、彼女の目をじっと見た。
三年。従順の代名詞だった妻が、今は毛を逆立てた猫みたいだ。
最初からこうだったのか、それとも急に変わったのか。
黒崎昌仁は微妙な空気に気づかず、夫婦仲が良くなったのだと喜んでいた。
「霧子、あまり食べんの。胃の具合が悪いのか?」
「株をもらえて嬉しくて」
夏目霧子は笑う。
「最近、逸臣ってば私をすごく甘やかしてくれるんですよ」
そう言いながら、わざと黒崎逸臣の肩にもたれ、視線で合図を送る。
――株さえくれるなら、私は演じる。従順な妻を。
黒崎昌仁は大満足で笑った。
「仲がいいなら安心だ! そろそろ黒崎家に跡取りをだな。逸臣、今夜は忙しいだの言わず、ここに泊まれ!」
夏目霧子の笑みが一瞬だけ固まったが、すぐに照れたようにうなずいた。
そのまま寝室へ入るまで、演技は続く。
ドアが閉まった瞬間、彼女の顔から笑みが消えた。部屋の隅のソファに座り、黒崎逸臣から距離を取る。
「おじい様が寝たら、菜々美のところへ行けば」
淡々と言う。
「安心して。お金で動くんだから、私がカバーする。今夜ここにいないって、誰にもバレない」
黒崎逸臣は眉間に深い皺を刻んだ。明らかに、その態度が気に入らない。
「俺を成り立たせたいのか。それとも早く追い出して、別の男と会うつもりか」
「黒崎さんが道徳の底が抜けてるから、私もそうだと思うんですか?」
言い終える前に、夏目霧子は口を押さえてトイレへ駆け込んだ。夜、ほんの少し多く食べただけなのに、また吐き気が襲った。
「どうした」
黒崎逸臣が追ってきた。昼間も吐いていたことを思い出したのか、ふと表情が変わる。
「……お前、まさか、妊娠してるのか?」
