第5章 黒崎逸臣に突き放される

黒崎逸臣は夏目霧子に拒む隙すら与えなかった。手首を掴み、そのまま外へ引きずる。

助手席へ押し込まれ、ドアはすぐにロックされた。

「逸臣、言ったでしょ。妊娠してない。ただ胃の具合が悪いだけ」

霧子は背もたれにもたれたまま、青い顔を崩せない。

「妊娠か胃の不調かは、医者が決める」

逸臣はエンジンをかけ、片手でハンドルを切る。最初から最後まで、彼女を見ようともしない。

霧子は窓の外へ視線を逃がし、血の気の失せた唇をきゅっと噛んだ。

今、いちばん行ってはいけない場所が病院だ。

検査をされれば、妊娠は隠しようがない。

逸臣がこの子の存在を知ったら、どうするだろう。堕ろせと迫るのか。それとも黒崎家の体面のために、無理やり自分を縛りつけるのか。

どちらにしても、望む未来じゃない。

膝の上で握りしめた拳に、爪が食い込む。

運転に集中する逸臣の横顔は冷たく硬い。顎のラインが張り詰めている。

これは本気だ。行かない、という選択肢はない。

霧子は深く息を吸い、スマホを取り出す。水野菜々美とのトーク画面を開き、指を走らせた。

「今日ちょっと食あたりしただけなのに、逸臣が心配して全身検査するって病院に連れて行くの。菜々美、彼って私のこと大事にしてると思わない?」

送信。

スマホをしまい、霧子は目を閉じて眠ったふりをした。

菜々美の性格なら、こんな状況を黙って見過ごすはずがない。

案の定、2分もしないうちに車内に専用の着信音が鳴り響いた。

それは昔、菜々美がわざと逸臣のスマホに設定した音だ。「この音が鳴ったら私だって分かるでしょ?」と。

その音が嫌で、霧子は変えてほしいと頼んだ。

けれど逸臣はあのとき、平然と言ったのだ。

「お前、ほんと小さいな。菜々美は年下で遊びたいだけだろ。替えればいい。そんなことまで目くじら立てるな」

今は、その音が救いだった。

逸臣の手が一瞬止まり、迷うように霧子を見る。

霧子は淡々と言った。

「出たら? 菜々美ちゃんがまた『手首切る』って騒いだら、今度も私のせいにされる。私があなたを止めたって」

逸臣は唇を引き結び、通話を取る。

「逸臣……」

受話口から、泣き声まじりの甘い声が漏れた。

「胸が苦しいの……怖い……私、どうしたの……?」

逸臣の声が一気に張りつめる。

「菜々美? どこにいる。薬は手元にあるか」

「家にいる。でも誰もいないの……怖いよ、逸臣……私、死ぬの?」

逸臣は急ブレーキを踏んだ。タイヤが短く鳴く。

「大丈夫だ。落ち着け……今すぐ――」

スマホを握ったまま、逸臣は霧子を見た。

迷いと葛藤が、その目に滲む。

――分かってる。

菜々美が泣けば、逸臣の「原則」なんて全部引っ込む。

捨てられるのは、いつも自分だ。

「行って」

霧子はシートベルトを外し、ドアを押し開けた。

「前が病院だから。私、歩いて行ける。あの子を待たせないで」

霧子の「聞き分けのよさ」に、逸臣の罪悪感は薄まったのだろう。声が少しだけ柔らかくなる。

「先に行け。何かあったら電話しろ」

一拍置いて、付け足す。

「菜々美を見たら戻る」

「いらない」

霧子は振り返らず、ドアを閉めた。

黒い車が交差点でUターンし、砂埃を巻き上げて遠ざかる。

霧子は冷たく笑う。

……よかった。菜々美のこの手は、相変わらず百発百中。

……

霧子はひとりで産婦人科へ向かった。

そこで思いがけず、顔見知りと鉢合わせる。

浅野弦。高校の先輩。

浅野弦は検査結果を見ながら言った。

「胎児の状態がよくない。それに切迫流産の兆候がある。霧子、身体が弱すぎるよ。最近、気持ちの浮き沈みも激しいし……このままだと、かなり危ない」

霧子の手が震え、検査票を落としそうになる。

「どうしたらいいの、浅野先輩……お願い。初めての子なの。失いたくない……」

「まずは安静。流産防止薬も追加で出す。きちんと飲んで」

霧子は何度も頷いた。怖くて、ひとつも聞き漏らしたくない。

産婦人科を出ると、逸臣からメッセージが届いていた。

「菜々美のそばを離れられない。タクシーで帰れ。俺を待つな。」

霧子はその文字を長いあいだ見つめた。

胸の鈍痛が、じわじわと麻痺へ変わっていく。

最初から分かっていた結末だ。だから悲しくない――そう思うしかない。

それが菜々美の仕業で、逸臣のスマホから勝手に送られたものだなんて、霧子は知らない。

知ったところで、もうどうでもよかった。

薬を受け取りに下へ降りる。休日の病院は混み合っている。

ようやく順番が来たが、医者は昼休みに入ってしまい、午後にまた来いと言われた。

迷った末、霧子はロビーの椅子で待つことにした。

座った瞬間、耳元に聞き慣れた声が落ちてくる。

「お姉ちゃん、ひとり?」

水野菜々美だった。病衣姿で、逸臣のスーツの上着を肩に掛けている。

さっき電話で泣いていた弱々しさなど、どこにもない。

浅野の「感情を揺らすな」という言葉が脳裏をよぎり、霧子は相手にしないつもりだった。

だが菜々美はわざわざ近づいてくる。

「さっきね、逸臣が大慌てで、私を抱えて病院まで走ったの。心配でたまらないって」

口元を隠してくすりと笑う。

「お姉ちゃん、何がしたいの? 病気のふりで逸臣を呼び出しておいて、結局ひとりで置いていかれて。彼は私のために走り回ってるのに」

霧子は淡々と見返した。

「そんなに大事なら、どうして結婚してもらわないの。何年も『妹』のまま。名分もないくせに」

その一言が刺さったのだろう。菜々美の目が歪んだ。

「夏目霧子、ほんと不幸そう。顔が死んでる。縁起悪い」

唇が釣り上がる。

「だから父親も早死にしたんじゃない? あんたが――」

次の瞬間。

ぱん、と乾いた音が廊下に響いた。

空気が一斉に凍る。

頬を押さえ、呆然と霧子を見る菜々美。

霧子の手は震えていた。

「水野菜々美。私の父のこと、もう一度言ってみなさい」

奪われるのは耐えられた。逸臣の冷たさも耐えられた。

でも父だけは、譲れない。

「このクズ……私を叩いた?」

菜々美が歯を食いしばって一歩踏み出した、そのとき。

エレベーターが開き、背の高い男が大股で出てきた。

菜々美は目を細め、瞬時に表情を作り替える。

次の瞬間、身体をくにゃりと崩し、そのまま床へ倒れた。

「お姉ちゃん、叩かないで……私、本当に反省してる……!」

涙が一気に溢れる。

「逸臣、痛い……」

黒崎逸臣はエレベーターを出た瞬間、その光景を見た。

霧子は立ち尽くし、手がまだ空中に上がったまま震えている。

菜々美は床に倒れ、頬を押さえて泣いている。

逸臣の中の糸が、ぷつりと切れた。

数歩で詰め寄り、霧子を突き飛ばす。

「お前! 狂ったのか!」

力を加減しなかった。

もともと弱っていた霧子はよろけ、背中が硬い案内台に激突する。腰から腹へ、鈍い痛みが走った。

顔が一瞬で白くなり、冷や汗が噴き出す。

逸臣はその様子を見ても、失望の色を濃くするだけだった。

「お前はただ気が強いだけだと思ってた。だが今は、手がつけられない」

「菜々美はまだ具合が悪いのに、よく殴れるな」

霧子の腹の奥が、裂けるように痛い。何かが体から剥がれ落ちそうな感覚。

彼女は腹を押さえ、ゆっくり床へ崩れた。

「……お願い。医者を呼んで」

声が震え、懇願になる。

「お腹が……お腹が、痛い……」

逸臣は冷たく笑った。

「そんな苦肉の策、もう通じない。俺は信じない」

「ここで反省してろ」

そう言い捨て、彼は菜々美を抱えて去った。

菜々美は勝ち誇った目で霧子を見て、わざとらしく瞬きをする。

霧子は全身汗でびしょ濡れになり、目を落とす。

服の下から、赤が滲んでいく。

――嫌だ。私の子……。

膝の力が抜け、霧子は床に倒れ込み、暗闇へ沈んだ。

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