第1章 裏切り
ナタリー視点
ハンドルを握る私の隣――助手席には、レヴィが今すぐ必要としているルクセンブルク案件の書類が置かれていた。
そのとき、スマホが唐突に鳴る。知らない番号。
通話を取った。けれど、こちらが口を開くより先に、耳へ流れ込んできたのは、絡みつくような甘い声と湿った喘ぎだった。
「ナタリーじゃ、ぜんっぜん満たされないんでしょ? だから私とするって決めたんだよねぇ」
若い女の声。
それに重なる男の声は、低くて、ぞっとするほど冷たい。
「彼女か? もうとっくに飽きた。大事なのは、お前だけだ」
無意識に、スマホを握る指先へ力がこもる。
この声――レヴィ。
私の夫。
その言葉を聞いて、女はくすくすと喉を鳴らした。勝ち誇った甘さが、その笑いに滲んでいる。
「じゃあ、離婚したら私と結婚してくれる? ねえ、ダーリン」
「ベイビー。お前だけが、俺の唯一の妻だ」
胸の奥がぐしゃりと潰れたみたいに痛んで、息が詰まった。私は勢いよく通話を切り、滲んだ視界を瞬かせる。
そして、見えた。
路肩に停まっている、見慣れた黒いベントレー。
――レヴィの車。
車体が激しく、規則正しく揺れていた。まるで、この八年間の私の愚かさをあざ笑うみたいに。
かつて私は、レヴィと深く愛し合っていた。たとえ彼の母親が、私への嫌悪を一度だって隠さなかったとしても。
あの人は、私の人生を地獄に変えるためなら、どんな手でも使った。家族の食事会では、わざと冷え切った料理を出させ、皆の前で平然と言い放つのだ。
――あなたはレヴィにふさわしくない、と。
それでも、あの頃のレヴィはいつだって私を庇ってくれた。八年前。母親に何度反対されようと、彼は結婚を諦めなかった。
忘れもしない。結婚式の前日、私は彼の母に書斎へ呼び出された。
彼女は薄く笑って、こう言った。
「ナタリー。勝ったつもり? この世に永遠なんてないのよ。あの子はまだ、あなたに新鮮味を感じているだけ。飽きたら真っ先に捨てられるのは、あなたよ」
その直後だった。書斎の扉が乱暴に開き、レヴィが飛び込んできた。
彼は私の手を掴み、まっすぐ目を見つめて誓った。
「ナタリー。お前だけが、俺の唯一の妻だ。永遠に」
――同じ言葉を、今は別の女に向けている。
レヴィだけは違う。そんなふうに思っていた。
けれど結局、永遠なんてどこにもなかった。
彼は別の女と好き放題に絡み合い、結婚を裏切る背徳さえ愉しんでいる。
負けたのは、私だ。
もう、うんざりだった。
一週間前、あの母親がまた私のもとへやって来た。差し出されたのは、離婚協議書。
「レヴィにこれへ署名させなさい。結婚の秘密は墓場まで持っていくこと。そうすれば補償として10億ドルを渡すわ」
まさか、自分があの書類を使う日が来るなんて思っていなかった。
けれど今、私はそれを引っ張り出している。
目の前では、ベントレーが規則的に揺れ続けている。そのたびに胃の奥がぐらぐらと掻き回された。
――ふざけるな。
もう、黙って飲み込んだりしない。
私はスマホを掴み、あの尊大な母親へメッセージを打ち込んだ。
「私の10億、用意して」
送信した瞬間、アクセルを床まで踏み抜く。
白いマセラティが、復讐の弾丸みたいに跳ねた。まだ派手に揺れている黒いベントレーへ向かって、容赦なく突っ込んでいく。
ドン――!
轟音。
金属がひしゃげる耳障りな悲鳴が、鼓膜を鋭く掻いた。
見えた。中にいた女が慣性で大きくのけぞり、そのまま無様に後部座席へ転がり落ちるのが。
私は数秒だけ、車内からその喜劇を眺めた。
醜悪で、滑稽で――笑えてくる。
それから離婚協議書をほかの書類の束へ紛れ込ませ、深く息を吸ってドアを開けた。
私は彼の車へ駆け寄り、窓を激しく叩く。
ドン! ドン! ドン!
窓がゆっくりと数センチだけ下がり、レヴィの怒りに歪んだ顔が覗いた。中を見られたくないのが、露骨すぎるほど伝わってくる。
「ナタリー? お前、頭でもおかしくなったのか!」
低い怒声。
私は必死に焦っているふりをして言った。
「ルクセンブルクの件よ! 先方の弁護士が上にいるの。今すぐサインしなければ帰るって!」
そう言いながら、書類を窓の隙間から押し込む。
レヴィは苛立ちを隠そうともしない。どう見たって車内の始末を優先したい顔だった。でも、ルクセンブルク案件は彼にとって無視できない最重要案件だ。
彼は書類をひったくり、ろくに確認もしないまま署名欄を開いた。さっと名前を書きつけ、そのまま乱暴に全部押し返してくる。もちろん、その中には離婚協議書も混ざっている。
「片づけろ! 今すぐ失せろ!」
「かしこまりました」
私はあっさり引き下がり、優雅に踵を返した。ためらいなんてひとつもない。
だって、私にはもっと大事な用がある。
スマホが震えた。レヴィの母親からだ。相変わらず傲慢な文面。
「息子の署名をこの目で確認するわ」
私は冷たく笑い、署名の入った離婚協議書を撮って送り返した。
「ご希望どおりです。口座情報はご存じですよね」
今の私が取り戻したい、たったひとつ価値のあるもの。
――尊厳。
家へ戻ると、私は荷造りを始めた。この屋敷に、本当に私のものと呼べる物なんてほとんどない。
最後の数点をスーツケースへ放り込んでいた、そのときだった。寝室のドアが開き、レヴィが入ってくる。
まるで何事もなかったかのように近づいてきて、唇を私の首筋へ這わせ、手を服の中へ滑り込ませた。
午後の光景が脳裏に蘇る。
込み上げた吐き気のまま、私は全力で彼を突き飛ばした。
「ナタリー? 何のつもりだ」
よくそんなことが言える。
目を見開いた瞬間、血の中で火が燃え上がった。
「午後、あなたの車にいた女は誰?」
レヴィは露骨に面倒くさそうな顔をした。
「ただの取引先の娘だ。リリアン。海外から戻ったばかりでな、少し面倒を見てやる必要がある。ナタリー、感情的になるな」
面倒を見る?
あの車の中でしていたことが?
電話越しに、私は全部聞いた。ベントレーがどれほど激しく揺れていたか、この目でも見た。
もう確信している。
私の心は、完全に死んだ。
一刻も早く、この人から離れなければならない。
私は息を整え、はっきりと言った。
「レヴィ。離婚して」
「離婚だと?」
整った顔が、怒りで見る間に歪んでいく。
「ナタリー。今の言葉、もう一度言ってみろ」
私は一度も瞬かなかった。
「離婚したいの」
彼は鼻で短く嗤うと、そのまま距離を詰めてきた。
「誰にそんな度胸をつけてもらった? お前は平凡な生まれだ。今お前が持ってるものは全部、俺が与えたものだろう。俺がいなければ、お前は何者でもない」
顎を掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。
かつて溺れたあの深い瞳には、今や冷たい支配しか宿っていなかった。
「はっきり言っておく。不可能だ」
ひとつひとつの言葉が、毒針みたいに心臓へ突き刺さる。
痛い。
骨の髄を無数の蟻に食い荒らされるみたいな、激痛。
――くそ。
彼は、私が離れられないと信じきっている。
でも、知らない。
私はもう、かなり巧妙な仕掛けを終えている。
離婚協議書には、すでに署名させた。
復讐の愉悦が電流みたいに胸を走り、口元が勝手に冷たい嘲笑へ歪んだ。
