第4章 エルヴィンとのダンス
ナタリー視点
彼は、目立つ。原始的で危険な引力みたいなものを纏っていて、背は高く、肩幅も広い。
彫りの深い端正な顔。その頬に――いまは、くっきりと平手打ちの跡が残っていた。
エルヴィン・デイヴィス。
誰もが息を呑む名前。
この一年で、彼は資本力のある企業を十三社も叩き潰したという。冷酷無比なCEOが交渉の席に姿を現した瞬間、相手は死刑宣告を受けたも同然――そんな噂まである。
エルヴィンの会社は、レヴィのそれの十倍以上。私はニュースで影だけ見たことがある程度の、まさに「伝説」みたいな男だ。
そんな彼が、どうしてレヴィの実家の集まりにいるの?
エルヴィンは深い目で私を値踏みするように見た。そこでようやく、自分がどれだけひどい顔をしているかを思い出す。
「ごめんなさい。でも盗み聞きしてたわけじゃありません」私はすぐに言い訳した。「たまたま通りかかっただけで……」
彼は口元だけを薄く吊り上げた。冷淡な弧。
「お嬢さん。泥棒は、自分を泥棒だとは認めない」
嘲りを含んだその声が、胸をちくりと刺す。けれど言いたいことは分かる。誰だって、最悪の瞬間を見知らぬ相手に見られたくはない。
「今夜見たことは、誰にも言いません」私は視線を逸らさずに告げる。「約束します」
エルヴィンは答えなかった。代わりに顔を邸宅のほうへ向ける。
「そろそろ舞踏会が始まる」投げやりな調子で言って、「本当に詫びたいなら、俺の相手をしろ。見てのとおり、さっき俺のパートナーが逃げた」
私は言葉を失って、反射的に首を横に振っていた。
あの視線に晒されるなんて無理。レヴィの家族の、上品な仮面を被った悪意を思い出すだけで胃がむかつく。
エルヴィンの表情がわずかに変わった。軽蔑が一瞬、頬を掠める。
「なんだ。怖気づいたか?」
背筋が硬直する。
「……何ですって?」
「さっき会場で起きたことは見てた」彼は捕食者みたいな目で私を測る。「あのときは随分と威勢が良かった。いまはどうした? 表に出るのが怖いのか?」
頬が熱い。恥じゃない。怒りだ。
「あなたに、私の事情なんて分からない」
「そうか?」刃みたいな笑みが浮かぶ。「俺には、危ない橋を渡ってるように見える。問題は――檻を壊す度胸があるかどうかだ」
わざと刺してくる、その挑発が胸の奥の反抗心に火を点けた。
正直、いまの私にとってエルヴィンほど都合のいい「相手」はいない。
「断るなんて言ってません」顎を上げる。「あなたのパートナーになります」
彼の笑みが少しだけ深くなる。けれど目は笑っていない。
「いい。なら会場で」そして淡々と続けた。「その前に、身なりくらい整えろ」
私は化粧室を見つけ、乱れた髪を直して、ドレスの皺を撫でる。崩れたメイクも手早く整えた。
準備ができたところで、深く息を吸い――宴会場へ戻る。
目に飛び込んできた光景に、奥歯がきしむ。
リリアンがレヴィの腕にぴたりと絡みつき、まるで恋人同士みたいに寄り添っていた。
私に気づいた瞬間、リリアンの甘い笑顔が、ぬめるように陰険へ変わる。
「まあ、ナタリー! レヴィがさっき、私と踊るって言ってくれたの」わざとらしく声を弾ませる。「あなた、相手がいなくて可哀想。でも……もしかして、踊れないの?」
返事をするより先に、レヴィが私へ鋭い視線を投げた。黙れ、と言わんばかりの警告。
もう怒りすら湧かない。私はゆっくり笑みを作る。
「残念。新しいパートナーを見つけたの」
リリアンは鼻で笑った。
「誰があなたなんかの相手を? 誰も気にしない役立たずのくせに」
そのとき、入口付近でざわ、と空気が揺れた。人々が一斉に振り向き、道が割れる。
エルヴィン・デイヴィスが現れた。
群衆が無意識に距離を取り、彼は迷いなく私の前へ来る。そして手を差し出した。
「準備はいいか?」
深い瞳に、からかう光。
「もちろんです、デイヴィスさん」
私はその掌に指を預けた。
「……デイヴィス?」レヴィが掠れた声で繰り返す。目を見開き、顔に露骨な嫉妬が浮かぶ。「お前、どうして――」
言い終える前に音楽が鳴り、舞踏会が始まった。
リリアンは顔を強張らせ、レヴィの腕を引いて離れた場所へ移動する。できるだけ、私たちから遠くへ。
エルヴィンは手慣れた動きで私を導き、ワルツの輪へ滑り込ませた。片手は腰へ、もう片方は私の手をしっかりと取る。力があるのに乱暴じゃない。
「玩具を他人に触られるのが嫌いなんだな」エルヴィンが軽く言った。口調は気楽なのに、皮肉が滲む。
「私は誰の玩具でもないわ」
「そうか?」彼は柔らかく旋回し、私を近づける。「じゃあ、なぜ指輪をしてる? まだ妻なのか」
言葉が詰まった。全部説明するには、あまりにも汚れていて、複雑で――口に出したくない。
不思議だった。初対面なのに、呼吸が合う。何度も踊ったことがあるみたいに。
このまま黙って終わるのかと思った瞬間、エルヴィンが唐突に言う。
「俺のところへ来い。働け」
足がもつれ、転びそうになる。
「……え?」
デイヴィス・グループを握る男が、私に? こんな場で?
彼はすぐに私の腰を引き寄せ、体勢を崩させない。
「お前は頭が切れる。手も動く。だがレヴィは、お前を正当に評価しない」
一拍置いて、深い目が私を射抜く。
「どうする? 興味があるか。それとも――まだ檻の中がいいか」
答える前に曲が終わった。人の輪がほどけ、ダンスフロアに礼儀正しい拍手が響く。
エルヴィンは名刺を一枚、私に差し出した。半歩下がり、感情の読めない顔で。
「よく考えろ。時間はやる」
そう言い残して、彼は踵を返す。
私はダンスフロアの中心に取り残されたまま、ただ名刺を握りしめていた。
頭の中でさっきの言葉を反芻していると、給仕が静かに寄ってくる。銀のトレイにはシャンパン。
「リリアン様からです」若い給仕が丁寧に微笑んだ。
私は部屋の向こうを見る。リリアンが甘い笑みでこちらを見つめ、グラスを持ち上げていた。
挑発。宣戦布告。
――いいわ。受けて立つ。
私もグラスを取り、同じように掲げてから、一口含む。
いつか必ず、代償を払わせる。今夜の全部の分を。
やがてパーティーは終わった。
マーガレットの声が場を支配するように響く。
「レヴィ、リリアンを車で送って差し上げなさい。紳士の礼儀よ」
明らかに、私へ向けた言葉。愛人のための道を、堂々と敷いている。
私は無視した。邸宅を出て、自分の車へ向かう。
エンジンをかけ、幹線道路へ出る。雨が降り始めていて、深夜の道に車影はほとんどない。
十五分ほど走った頃だ。違和感がきた。目眩。視界がふわりと滲み、焦点が合わない。
私はハンドルを強く握り、必死に意識を繋ぐ。
けれど道路が揺れて見える。瞼が鉛みたいに重い。
前方――カーブ。
私は咄嗟にハンドルを切った。車体がぐらんと傾き、タイヤが甲高く悲鳴を上げる。
次の瞬間――
ドンッ。
衝撃。続いて、ガラスが砕け散る破裂音。身体が投げ出され、視界が上下に反転した。
痛みが爆ぜる。肋骨も頭も、裂けるように鋭く、凶暴に。
闇に飲まれる直前、路肩に一台の車が停まるのが見えた。
そして――見覚えのある、背の高い影がドアを開け、こちらへ歩いてくる。
そこで、私の世界は途切れた。
