第8章 彼のために泣いた最後の日
ナタリー視点
エレベーターにたどり着く前に、背後から慌ただしい足音が追ってきた。
「ナタリー、待って!」
振り向くと、部の半分近くが席を立ち、廊下へなだれ込んできていた。誰の顔にも、信じられないという色と、怒りと、痛ましさが入り混じっている。
真っ先に私の前まで来たのは、シニアアナリストのレイチェルだった。もう目が赤い。
「本当なの? 本当に辞めちゃうの?」
私はどうにか笑みをつくり、こくりとうなずく。
「ええ」
その後ろでは、後方支援チームを率いるデリックが、広い胸の前で腕を組んだまま立っていた。低い声。けれど、その奥で怒りを必死に押し殺しているのが分かる。
「どうしてあんたが出ていかなきゃならない。残るのが、あんな無能な人間だなんて」
「デリック」
私は小さな声でたしなめた。
「声を落として。リリアンが今、私のオフィスにいるの」
「いや、本気で言ってる」
彼は声量を落とさない。むしろ、いっそうきっぱりと言い切った。
「あんたが来たばかりの頃、疑ってた連中は多かった。社長の妻だからってな。正直に言えば、俺もその一人だった」
あまりにも率直で、だからこそ胸に刺さる言葉だった。デリックは続ける。
「でも、あんたはこのチームを引っ張って、でかい案件をいくつも取った。あれからだ。誰も文句なんか言わなくなったのは」
人だかりをかき分けて、部でいちばん若いチームリーダーのソフィーが前へ出てくる。マスカラはもう滲んでいて、目元はぐしゃぐしゃだった。彼女は私の手をつかみ、指の関節が白くなるほど強く握りしめる。
「ナタリー、いつも大事なプレゼンの前は、夜中まで残ってたじゃないですか」
しゃくり上げながら、ソフィーが言う。
「契約が決まるたび、私たちの誰よりも喜んでくれてた。それ、私……ちゃんと覚えてます」
胸の奥がずきりと痛んだ。それでも私は笑う。
「そんなこと言わないで。それは、みんなが頑張ったからよ」
「この部署をここまで背負ってきたのは、あなたです。それなのに追い出されるなんて」
デリックが冷えた声で言い放つ。
「それが事実だ。このビルの中じゃ、誰だって知ってる」
ソフィーは手の甲で涙をぬぐった。
「ナタリーは、もっといい場所に行くべきです。これから、どうするつもりなんですか?」
私はふっと微笑んだ。
実は今朝、すでに一本、電話が来ていた。ヘッドハンティング会社から。
遠回しに今後の予定を探ってきたけれど、その時点では、私がレヴィの会社を去る話なんて、まだ表に出ていなかったはずだ。
それなのに、向こうは知っていた。
デリックは腕を下ろし、壁にもたれかかる。
「仕事の話なら、デイヴィス社を当たってみるのもいいかもしれない。エルヴィン・デイヴィスは一年くらい前に戻って経営を引き継いだが、まだ納得できる主席秘書を見つけられてないらしい。その席、もう何か月も空いたままだ」
ソフィーがぱっと目を見開いた。
「えっ、それ最高じゃないですか! ナタリーなら絶対できます。むしろ、ぴったりです!」
その瞬間、私の意識は数日前へ引き戻された。
深い眼差しで私を見つめていたエルヴィン。手のひらに滑り込ませられた名刺。そして、あの一言。
――俺のところで働け。
私はその記憶を胸の奥にしまい込み、二人へ笑いかける。
「まずは頭を整理させて。これからのことは、そのあとで考えるわ」
そう言って、少し肩の力を抜く。
「落ち着いたら、ちゃんとみんなにご馳走する。とびきりいいディナーをね」
ソフィーが大きく鼻をすすり、そのまま私に抱きついてきた。レイチェルも加わる。
感傷なんて欠片も見せたことのないデリックでさえ、最後には私の肩を力強く叩いた。
けれど次の瞬間、私は表情を引き締める。
「よく聞いて」
一人ひとりの顔を見て、はっきり告げた。
「みんな、賢く立ち回って。リリアンを刺激しないで。付け入る隙を、絶対に与えないこと。自分の身を守って。いいわね?」
私の言いたいことは、全員に伝わっていた。リリアンがどんな女か、みんな知っている。
ソフィーは最後の涙をぬぐい、うなずいた。
「気をつけます」
会社のみんなと別れたあと、私は先にグラントへメッセージを送っておいた。
バーに着いたときには、彼女はもう、いつものボックス席に座っていた。
何も言わないまま立ち上がり、その両腕で私をぎゅっと抱きしめる。
「よく頑張ったわ、ナタリー」
リリアンの頬を張ったとき、私は泣かなかった。チームのみんなの前でも、泣かなかった。
感情なんてひとかけらも見せず、どの瞬間も強く見えるように踏ん張ってきた。
でも今、グラントの腕の中に収まった途端、何もかもが決壊した。
涙が一気にあふれ出す。熱くて、止まらなくて、私は彼女の肩に額を押しつけたまま、嗚咽を漏らした。
「離婚したいのに、レヴィは私の両親を盾にしてくるの……! 私が自分から離れられるはずがないって、あの人、本気でそう思ってる!」
「私、あの部署に全部を注いだのよ。それをレヴィは、何でもないみたいに奪って……そのままリリアンに渡したの!」
目を閉じたまま、私は吐き出した。怒りも、悔しさも、胸に溜め込んでいたものを全部。
グラントの手が後頭部に回り、さらに強く抱き寄せられる。
「ナタリー、よく聞いて」
低く、けれど刃みたいにはっきりした声だった。
「私が腕のいい弁護士だってこと、あなたは知ってるでしょう。あなたが望むなら、レヴィでも、あの母親でも訴えられる。きっちり代償を払わせてあげる」
私は顔を上げて、彼女を見た。
普段のグラントは、朗らかで、気さくで、そばにいる人間をほっとさせる人だ。
なのに今は違う。目の奥に獰猛な光が燃えている。今にも素手で誰かを引き裂きそうな顔だった。
彼女は私のいちばんの親友で、拠り所だ。私のためなら何でもする。ためらいなんて、ひとつもない。
それでも私は、首を横に振った。
「だめ」
「ナタリー、どうしてよ!?」
グラントの表情がさっと強張る。
私は涙をのみ込み、無理やり息を整えた。
「誰かが手を貸したら、レヴィに気づかれる。私が何か企んでるって分かれば、あの母親も必ず邪魔してくる」
そして、自分に言い聞かせるように続ける。
「今はもう、離婚書類に署名はもらってる。あとは、この時間を耐えて……彼の母親からの連絡を待つだけ。私は待てばいい。それだけよ」
グラントは長いこと私を見つめていた。瞳がきらりと光る。
「あなたって、本当に私が今まで会った中でいちばん意地っ張りな女ね」
ようやくそう言って、呆れたように息をついた。
目の奥がまた熱くなる。それでも私は、今度こそ本当の笑顔を浮かべた。
「昔からこうなの」
彼女は長く息を吐き出す。
「分かったわ。でも、私はいつでも動けるようにしておく。あなたが必要だって言えば、すぐ駆けつける」
少し身を乗り出して、念を押すように言う。
「約束して、ナタリー。何でも一人で抱え込もうとしないって」
胸の奥がじんわり温かくなった。私はしっかりとうなずく。
「約束する」
グラントはしばらく私を見つめ、それからバーテンダーへ向かって手を上げた。
「もう二杯お願い」
私たちは飲んだ。一杯、また一杯。
ウイスキーは喉を焼くように熱かった。でも、その熱が胸のつかえを少しだけほどいてくれる。ようやく呼吸ができる。そんな気がした。
しばらくして、グラントがグラスを持ち上げ、私のそれに軽くぶつけた。
「あなたなら乗り越えられるわ」
声音はやわらかいのに、芯だけは揺らがない。
「全部終わったら、最高のパーティーを開いてあげる。それに――レヴィより一万倍ましな男と、絶対に出会えるわ」
