第5章 まさか彼だった
楠本和也と午後いっぱい話をして、綾瀬悠希は自分が教えることになる生徒の基本的な状況を大体把握した。
その少女の名は藤堂若葉。母子家庭の子で、そのためか性格に少し変わったところがあり、何人もの家庭教師が交代しても上手くいかなかったという。にもかかわらず、保護者からの教師への要求は極めて高く、楠本和也もどうしようもなくなり、それで綾瀬悠希に白羽の矢が立ったわけだ。
もともと綾瀬悠希はこの仕事にそれほど関心はなかったが、その少女の状況を聞いて俄然興味が湧いてきた。海外でピアノを学ぶ傍ら、心理学の授業も選択していた彼女にとって、これはまさに願ってもないケーススタディであり、思わぬ喜びに胸が躍った。
夜七時、綾瀬悠希は市の中心部にある藤堂家の邸宅に到着した。
ここは南都市の高級住宅街。藤堂家のようなクラスの富豪でなければ、ここの家を買うことなどできない。桜井家にそんな財力はなく、そもそも資格すらない。
授業は七時半からだったが、初めての訪問ということもあり、綾瀬悠希は三十分前に着いていた。環境に慣れるため、そして藤堂若葉の気性をあらかじめ探っておくためだ。
使用人は綾瀬悠希を藤堂若葉の部屋の外まで案内すると、まるで中に何か恐ろしいものでもいるかのように、そそくさと立ち去ってしまった。
綾瀬悠希がドアの前に立つと、中では机のそばに一人の女性と少女が座っていた。女性が話しているのが聞こえる。どうやら怒りを必死に抑えているようだ。
「若葉ちゃん、何度言ったらわかるの? 隣り合う数っていうのは、その数の前と後ろの数のことよ。もう一度聞くわ。5に隣り合う二つの数は何?」
「8と9」
「わざとやってるんでしょ?」
「そうよ。何か問題でも?」
「藤堂若葉、そんな態度を続けるなら、あなたのお父様にあなたが低能だって言ってやるから」
「言えるもんなら言ってみなさいよ」藤堂若葉はふてぶてしく言い放つ。「あたしはお父様の子供なのよ。あたしが低能ってことは、お父様が知的障害者ってことになるわ。そうなったら、ただじゃ済まないわよ」
江崎泉は気が狂いそうだった。この藤堂若葉は毎日毎日、暖簾に腕押し。何を教えても真面目に聞かず、宿題はめちゃくちゃに書きなぐるだけ。
しかも、こんな状態でも藤堂譲は気にもかけず、子供はまだ目覚めていないだけだと言い、しまいには彼女の指導能力まで疑い始めた。このままでは仕事すら失ってしまう。
「お嬢様、お願いですから、どうすればちゃんと勉強してくれるのか教えていただけませんか?」
「勉強なんてしない。あんたが何を企んでるか、あたしが知らないとでも思ってるの」
「私はただ、あなたにちゃんと勉強してほしいだけよ。他に何があるっていうの」
「ううん、あんたはあたしの継母になりたいんでしょ。でも、あたしが絶対に許さないし、お父様もあんたのことなんて好きにならないわ」
その言葉に、江崎泉は顔をしかめた。
「どうして?」
「あんたがブスだからよ」
「……」
ドアの外に立っていた綾瀬悠希は、思わず吹き出してしまった。それを聞きつけた江崎泉の顔は、怒りで青ざめる。藤堂若葉のお嬢様に腹を立てさせられるのはまだしも、どこの誰とも知れない女にまで笑われるとは。
そもそもどこが醜いというのか。何を隠そう、自分は物理学科のミスキャンパスだったのだ!
「あなたは誰?」江崎泉が不機嫌に尋ねた。
「こんにちは。新しく参りましたピアノの先生です。そちらはまだ終わらないのでしょうか?」
綾瀬悠希はにこやかだったが、その様子が江崎泉にはどうにも気に食わなかった。この女、あまりにも綺麗すぎる。江崎泉の心に、わけもなく危機感が芽生えた。
「ピアノの先生? 先生のくせにそんな格好して。知らない人が見たら、夜のお仕事の方かと思うわよ」
今日は綾瀬悠希にとって初仕事。ごく普通のライトカーキ色の襟付きワンピースを着ており、カジュアルビジネスといったスタイルで、夜の仕事とは縁もゆかりもないはずだ。
同じくお金を稼ぎに来た者同士、協力して子供を教育すればいいと考えていたが、どうやらそれは難しそうだ。
「そうですか? でも、あなたの服装は確かに先生らしいスタイルですね。とても落ち着いていて、しっかりされているように見えますわ」
「ふふっ」江崎泉は少し照れたように言った。「教育者たるもの、身だしなみが一番重要ですから」
「ぷっ、あんたバカじゃないの? その人が言ってるのは、あんたの服が古臭くてダサいってことよ」
藤堂若葉がお腹を抱えて笑い出し、隣の綾瀬悠希も笑いをこらえきれない。江崎泉の微笑んでいた顔は、みるみるうちに土気色になった。
「あなたたち! 藤堂若葉、あなたの最近の態度はちゃんとお父様にご報告します。それから、この新入りのピアノの先生。たった今のことも藤堂社長にありのまま報告させていただきます。今日が藤堂家での初仕事だそうですが、おそらく最後の日になるでしょうね」
「あらまあ、わたくし、とっても怖いわ」綾瀬悠希はひどく怯えたふりをした。
「こーわいこーわい」藤堂若葉もそれに乗っかって真似をする。
その瞬間、江崎泉は二人がどこか似ているように感じた。顔立ちも表情も。彼女はそんな馬鹿げた考えを振り払うように頭を振ると、全身から怨念を漂わせながら荷物をまとめて部屋を出て行った。
江崎泉が去った後、藤堂若葉は腕を組み、顎をしゃくり上げて綾瀬悠希を見つめた。
「あんたがピアノの先生? はっきり言うけど、あたし、ピアノがいちばん嫌いなの。さっきはあの嫌な魔女をやっつけるのを手伝ってくれたけど、だからってあたしにピアノを習わせようなんて無理だから」
「じゃあ、やらなくていいわ」綾瀬悠希も同じように腕を組む。「これからのピアノの時間は、あなたがしたいことを何でもしていい。私は何もしないから」
「ほんと?」藤堂若葉は目を輝かせた。
「ほんとよ」綾瀬悠希は頷いた。
「どうして?」
「あなたは働いたことがないからわからないでしょうけど、働く大人にとって、何もしないでお給料をもらえることほど最高なことはないのよ」
藤堂若葉は目を丸くした。「お父様に言いつけられても怖くないの?」
「怖くないわ。もしお父様に言ったら、また新しいピアノの先生に代わることになる。その人たちは私みたいに物分かりが良くないだろうし、きっとあなたにピアノを無理やり弾かせるわ。そんな馬鹿なこと、しないわよね?」
「当たり前でしょ」藤堂若葉は唇を尖らせた。
ピアノを習わなくていいのは嬉しいが、何かがおかしいと彼女は感じていた。
「それならよかった。あなたは遊んでて。私はちょっとスマホでもいじってるから」
そう言うと、綾瀬悠希はバッグからスマホを取り出してゲームを始めた。実に楽しそうで、自分が何をしに来たのかすっかり忘れているかのようだ。
彼女の様子を見て、藤堂若葉も自分のおもちゃで遊び始めた。しばらく遊んでからふと時間を見ると、もう九時近くだった。
「やめてやめて! もうすぐお父様が帰ってくるわ。早く何か少し教えてよ。じゃないと後で言い訳できないじゃない」
「オッケー」綾瀬悠希はスマホをしまった。「でも、あなたのレベルがまだわからないから。そうね、まず一曲弾いて聴かせてくれる?」
「……まあ、いいわ」藤堂若葉は不承不承、ピアノを弾き始めた。
藤堂譲が入ってきたのは、ちょうどその時だった。いつもピアノを嫌がる藤堂若葉が、静かに座ってピアノを弾いている。藤堂譲にとっては予想外の光景だった。
一曲弾き終え、藤堂若葉が振り返ると、戸口に立つ藤堂譲の姿が見えた。彼女は椅子から飛び降り、駆け寄って彼に抱きついた。
「お父様、お帰りなさい!」
「ただいま。今日はどうしてそんなにおりこうなんだ?」
「えへへ、お父様がちゃんと勉強しなさいって言ったからよ。今日もお仕事、疲れた?」
父と娘が抱き合って話す光景はとても心温まるものだったが、綾瀬悠希はそれを楽しむどころではなかった。なぜなら、その男こそ、昨夜彼女と狂おしい一夜を過ごした、あの男だったからだ!
