第6章 既視感
「藤堂さん、藤堂譲……世界って本当に狭いものね……」綾瀬悠希は心の中で静かにため息をついた。
「今日は授業中、ずいぶんお利口さんだったな。明日はご褒美にアイスクリームを食べに連れて行ってやろうか?」
「やったあ! ねえパパ、聞いて。今日の江崎先生、すっごく怖かったんだよ。それに、綾瀬先生のこと、プチプラやってる人みたいだって言ってたの。パパ、プチプラってどういう意味?」
藤堂譲は眉をひそめた。先ほど玄関で、江崎泉から今夜の出来事については聞かされていた。この新しいピアノの先生は、なかなかに口が達者なようだ。まさか若葉に先生を皮肉るようなことを教え込むとは。このままでは、若葉があの女に悪影響を受けてしまうのではないだろうか?
しかし、若葉は彼女とのピアノのレッスンを嫌がってはいないようだ。もし彼女をクビにしたら、若葉は悲しむだろうか?
「プチプラっていうのは、携帯電話で商売をすることだよ。若葉、今日のピアノのレッスンはどうだった?」
今日の授業中、彼女はずっとゲームをしていた。だが、そんなことはパパに言えるはずもない。藤堂若葉は瞳をくるくると動かし、笑顔で言った。「パパ、この先生、すごく良いよ。あたし、この先生好き」
ドアの外で盗み聞きをしていた江崎泉は、天が崩れ落ちるかのような衝撃を受けた。彼女がこれほど長く玄関で待っていたのは、藤堂譲が帰宅した際に今夜の出来事を報告し、あの女をクビにさせるためだったのに。
まさか、あの扱いにくい藤堂若葉が、自ら彼女を好きだと言うなんて。あの女は本当に奇妙だ。一体どうやってそんなことを?
「そうか、良かったな。じゃあ、先にお風呂に入ってきなさい。パパは綾瀬先生と少し話があるから」
「はーい、パパ」
藤堂若葉が使用人について風呂へ向かうと、藤堂譲はようやく隣に立つ綾瀬悠希を真剣に見つめた。不思議なことに、この女性にはどこかで見覚えがあるような気がした。
「綾瀬先生?」
心の中では千々に思いが乱れていたが、綾瀬悠希はそれを微塵も顔に出すわけにはいかなかった。表情を整え、落ち着いて答える。
「藤堂さん、こんばんは」
「若葉はあなたのことがとても気に入ったようですね。ですが、今後はあの子の前で妙なことを言うのは控えていただきたい。子供の教育に悪いですから」
「藤堂さん、先に私を皮肉るようなことを口にしたのは、あの江崎先生の方です。それに、私は何も悪いことなど申しておりません。率直に申し上げますが、江崎先生はお嬢様の家庭教師には不向きかと。彼女の教え方はあまりに杓子定規で、子供の思考力を育むことができません」
藤堂譲は虚を突かれた。江崎泉は彼の大学時代の恩師が推薦してくれた学生だ。学部で最も成績優秀で、幼稚園児を教えることなど朝飯前だと聞いていた。
この間、江崎泉は確かに真面目で責任感も強かった。若葉が少々腕白なのは事実だが、彼女は気立ても良く、根気強く若葉に教えてくれていた。それなのに、目の前の女性は江崎泉が不向きだと言うのか?
一方、ドアの外で綾瀬悠希の言葉を聞いていた江崎泉は、さらに顔色を変えた。もし藤堂譲がこの言葉に丸め込まれてしまったら終わりだ。給料の高いこの仕事を失うだけでなく、名門の仲間入りをする機会まで失ってしまうかもしれない。
そう考えた途端、江崎泉は部屋に駆け込んだ。
「綾瀬先生、わたくしたちは今日初めてお会いしたばかりですわ。藤堂社長も若葉ちゃんも何もおっしゃっていないのに、あなたにどうしてわたくしが不向きだと決めつけられるのですか?」
突然飛び込んできた江崎泉に、綾瀬悠希は一瞬ギョッとした。てっきりもう帰宅したものと思っていたが、まさか外で聞き耳を立てていたとは。
「江崎先生、因材施教という言葉をご存じないのですか。子供一人一人に合わせて、教え方を変えなければならないということですわ」
「それはもちろん存じております。ですが、あなたに何が分かるというのです? 若葉ちゃんは少し物覚えがゆっくりですから、わたくしは何度も何度も繰り返し教えるしかないのです。そうすることでしか、知識を脳に刻み込むことはできませんのよ」
その言葉を聞いた藤堂譲は頷いた。明らかに彼も江崎泉の意見に同意している。それを見た綾瀬悠希は心の中で「ありえない」と叫び、先ほど藤堂譲に気づいた時の気まずさや動揺もすっかり消え去っていた。
「今日、あなたは私の言葉の裏を読めませんでしたが、若葉ちゃんにはそれができました。つまり、若葉ちゃんはあなたより頭が切れるということですわ。江崎先生、若葉ちゃんをあまり見くびらない方がよろしいのでは?」
「わ、わたくしは……」
江崎泉は、自分のこの口がずっと嫌いだった。あまりにも不器用すぎるからだ。今のように、綾瀬悠希の言葉にどう反論すればいいのか、全く分からなくなってしまう。
「もういい」藤堂譲が口を開いた。「教師にはそれぞれ自分のやり方があるのだろう。君たちは他人の評価などせず、自分の仕事に集中してくれればいい」
藤堂若葉も江崎先生は嫌いだと言っていたが、今のところ江崎泉が最良の選択肢だった。
これまでの家庭教師はろくな人間がいなかった。藤堂若葉に当たり散らす者、こっそりつねる者、果ては面と向かって藤堂若葉を知的障害者呼ばわりする者までいた。
ある時は、女性教師がこっそり藤堂譲の部屋に忍び込み、彼がシャワーを終えて布団をめくると、中には裸の女が横たわっていたことさえあった……。
とにかく、これまで数多くの家庭教師を雇ってきたが、その中で江崎泉が一番まともだったのだ。
綾瀬悠希は眉を上げた。「承知いたしました、藤堂さん」
江崎泉は藤堂譲が自分の味方をしてくれるとは思っておらず、心から感動していた。「藤堂社長、わたくし、必ずや若葉ちゃんをしっかりお教えいたします」
「ああ。もう行っていい」
藤堂家を出ると、江崎泉はすぐさま表情を変えた。
「綾瀬さん、もしあなたが何らかの目的を持って藤堂家で教師をしているのなら、その考えは早々に捨てた方がよろしいですわ」
「あら? どうしてかしら」
「藤堂社長は、あなたのようなタイプの女性はお好みではありませんの。忠告しておきますけど、もししゃしゃり出たりしたら、恥をかくだけですわよ」
「あら、ご忠告どうも。でも、私には継母になるつもりはありませんし、どこかの誰かさんみたいに、身の程知らずにも、手の届かないものを妄想したりもしませんから」
江崎泉は、腹が立って仕方がなかったが、どうすることもできなかった。
しばらく黙り込んだ後、江崎泉はようやく一言を絞り出した。
「その言葉、違えないでいただきたいですわね」
江崎泉がこれほど危機感を抱くのも無理はなかった。何より、綾瀬悠希はあまりにも美しかった。その上、今日、藤堂若葉が自ら彼女を好きだと言ったのだ。藤堂若葉が父親以外の人間を好きだと言うのを、彼女は初めて聞いたのである。
シャワーを終えた藤堂若葉は、そっと父の部屋へ入っていった。外では悪ガキ扱いされている彼女も、父の前では素直な良い子なのだ。
「パパ、一緒に寝てくれる?」
「いいとも」
藤堂若葉が眠りにつくと、藤堂譲は絵本を閉じ、眼鏡を外して疲れた目を揉んだ。
昨夜の出来事がふと脳裏をよぎる。薬を飲んで眠りについたはずが、なんと春の夢を見てしまった。夢の中では相手の顔ははっきり見えなかったが、その体には妙に覚えがあった。まるで、数年前のあの……。
そこまで考えて、藤堂譲は首を振った。「最近、疲れているに違いない」
そして、彼は再び綾瀬悠希のことを思った。あの、どこかで会ったことがあるような感覚が、またこみ上げてくる。
