第88章 お腹に赤ちゃんがいるかもしれない

ダニエルとの昼食のせいで、綾瀬悠希の気分は少し沈んでいた。

 彼ときたら、せっかくの美味しい料理には目もくれず、あろうことか「あの男」の話を持ち出してきたのだ。それは彼女にとって、誰にも触れられたくない心の最深部にある傷跡だった。

 ピアノのレッスン中、そんな悠希の上の空な様子を、藤堂若葉は見逃さなかった。

「綾瀬先生、今日なんか元気ない?」

 悠希は若葉の小さな頬を軽くつまんで答える。

「そんなことないわよ。どうしてそう思うの?」

「だって今日、全然笑ってないもん」

「笑ってるわよ、ほら」

 悠希は慌てて笑顔を作ってみせた。

(いけない……私情を仕事に持ち込むなんて、プロ失格だわ...

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