第1章

「深沢奥さま、おめでとうございます。奥さまがいらっしゃらなければ、深沢社長がこんなにも早くご快復なさるはずありませんもの」

「ええ。苦しいときこそ本性が出るって言いますしね。深沢奥さまの深沢社長へのお気持ちは、皆さまちゃんと見ていらっしゃるわ。今夜、深沢社長がわざわざこんなに盛大な宴を開かれたのは――きっと正式に、奥さまのお立場を公表されるおつもりでしょう」

深沢グループの宴席。

来賓たちの祝福を受けながら、末永言葉は終始、礼儀正しい微笑みを崩さなかった。瞳の奥には、どうしようもない幸福が満ちている。

三年。

深沢承弦が回復してから、彼が彼女を伴い公の場に姿を見せるのは、これが初めてだった。

人波の向こうを探し、視線はたった一人――見慣れた背中を追う。

会場の中央に立つ深沢承弦は、黒いスーツに身を包み、背筋がまっすぐ伸びていた。数人のビジネスパートナーと言葉を交わしている。病は彼の威圧感を損なうどころか、むしろ落ち着きと内に秘めた鋭さを際立たせていた。

ふと、深沢承弦が目を上げる。

言葉を見つけると、群衆越しに、衆目の中で――手を差し伸べた。

末永言葉の鼓動が跳ね上がる。

こんな改まった場で、彼から先に手を取ろうとしたのは初めてだった。

深沢承弦に導かれ、言葉は壇上の中央へ向かう。祝福と羨望の視線が降り注ぎ、胸の奥が熱くなって、涙がこぼれそうになる。

初めて深沢承弦を見たときから、どうしようもなく恋に落ちた。

彼が交通事故で重体だと聞けば、すべてを捨てて彼のもとへ駆けつけ、看病した。

三年、身を削るように尽くし続け、ようやく彼は回復した。なら自分にも、苦労の先の甘い未来が来る。ずっと望んでいた愛が手に入る。そう信じて疑わなかった。

深沢承弦がマイクを受け取ると、会場が静まり返った。

言葉は彼の隣に立ち、少しだけ顔を上げて、彫りの深い横顔を見つめる。抑えきれない愛情が、瞳に滲んだ。

「今夜お集まりいただき、ありがとうございます。皆さまにお伝えしたいことがあります」

一拍置いて、深沢承弦は――言葉の手を、ふいに放した。

空っぽになった掌を呆然と見つめ、嫌な予感が背筋をなぞる。

次の言葉が耳に届いた瞬間、思考が止まった。

「私は、末永言葉との婚姻関係を解消することにしました」

空気が凍りついた。

言葉の笑みは口元で固まり、そして、ゆっくりと崩れ落ちる。

振り向いた彼女の目は赤く滲み、信じられないという困惑で揺れていた。

会場は死んだように静まり、次の瞬間、どよめきと囁きが爆発する。

さっきまで祝福していた視線が、今は驚愕と同情に変わっている。

深沢承弦の声が淡々と続く。

「この三年、私の療養に尽くしてくれた末永言葉には感謝しています。深沢家として相応の補償を用意しました」

言い終えると、彼は横目で彼女を見る。

その眼差しは、絶望的なほど冷たく、遠かった。

「言葉。今まで苦労をかけた。俺も回復した。――そろそろ、お前を自由にしてやる」

あまりにも軽い一言だった。

その一言で、言葉の三年間の献身も期待も、すべてが無に帰す。

唇が震えるのに、声は出ない。

耳鳴りがして、目の前が滲み、輪郭がぼやけていく。

天国から地獄へ落ちるのに必要なのは――本当に、一瞬。

壇上に立ち尽くし、骨の髄まで凍えるような寒さを覚えた。

突き刺さる視線は針のようで、逃げ出したいのに脚が動かない。笑いものを見るような目に晒され続けるしかなかった。

最後の客を見送り、ようやく会場が静かになった。床には散らかった痕跡だけが残る。

言葉は涙を堪え、割れた声で問いかけた。

「……そんなに急ぐ必要があるの? 協議は、まだ一か月残ってる。それに、お義母さんのほうだって……」

「母さんには俺が説明する。心配するな」

深沢承弦は遮るように言い、凪いだ口調のまま、書類をテーブルへ滑らせた。眉間に、言葉には読み取れない複雑な影が一瞬だけ走る。

「補償だ。足りないと思うなら言え」

『離婚協議書』

太字で印刷された文字が目に入った瞬間、視界が一気に霞んだ。

震える手で紙をめくる。

補償条項――都心一等地の邸宅二棟。何代も遊んで暮らせるほどの信託基金。株式の持分、宝飾品の一覧。

深沢承弦はいつだって彼女に惜しみなく与えた。

結婚の終わりさえ、こんなにも「体裁よく」整える。

体裁が良すぎて――問い詰める資格すら奪われる。

もはや引き返せないと、突きつけられているようだった。

家に戻ると、深沢承弦はまっすぐ二階へ上がり、シャワーを浴びに行った。

言葉は広いリビングに一人、離婚協議書を握りしめる。指先が白くなる。

痛みはもう、麻痺していた。

二階の寝室へ行き、ベッドの縁に腰を下ろす。機械みたいにスマホを取り出した瞬間、通知が弾けるように表示された。

【著名ファッションデザイナー温水真雲、新作を携え帰国。空港で謎の男性と親密な様子】

温水真雲――深沢承弦の初恋。

写真の中で、アイボリーのトレンチを纏った女が花のように笑い、隣の男にもたれかかっている。男はマスクで顔が見えないのに、言葉には一目で分かった。

深沢承弦だ。

彼がわずかに顔を傾け、温水真雲へ向ける眼差しは――たとえぼやけた空港写真でも隠しようがないほど優しい。

ああ、これが本当の理由。

胸の奥に何かが詰まり、息ができない。鈍い痛みが広がる。

言葉は涙を拭い、ペンを取り、離婚協議書に自分の名前を書いた。

それからクローゼットを開け、荷物をまとめ始める。

深沢承弦が買い与えた服もアクセサリーも山ほどある。だが彼女が選んだのは、もともと持ってきた私物だけ。スーツケース一つで足りた。

三年、家庭に入って自分の光をしまい込み、いつか真心が返ってくると信じた。

結果は――自分を騙していただけ。

スーツケースを引いて階下へ降りると、リビングから深沢承弦の声がした。穏やかな調子で誰かと通話している。

「もう離婚の話はした。安心しろ、同意するさ……そもそも、あいつは当時、望んで嫁いだわけじゃない」

言葉は足を止めた。取っ手を握る手に力が入る。

望んでいなかった? 彼は何を知っているというの。彼の心は一度も、自分に留まってなどいなかった。

三年前、深沢承弦は事故で重傷を負い昏睡。

周囲の反対を押し切って、彼女は深沢家と三年の結婚契約を交わした。以後、昼も夜も病室に張り付き、すべてを捧げて看病した。

二か月前、深沢承弦は車椅子から立ち上がった。医師でさえ「奇跡」と言った。

誰も契約のことを口にしなかったのに――このタイミングで温水真雲が帰国し、彼女の幻想を粉々にした。

電話を切った深沢承弦が振り返り、階段口に立つ言葉を見つける。少し迷い、口を開いた。

「どこへ行く」

「家に帰る」

咄嗟に出た言葉だった。実際には、帰るつもりなどない。

彼と結婚するために家が決めた縁談を断り、ずいぶん長い間、両親とも連絡を取っていなかった。

深沢承弦はしばらく考え、「送る」と言った。

断ろうとしたが、彼はすでに玄関へ向かっている。

扉を開けた瞬間、秋の冷たい風が頬を撫でた。

言葉は堪えきれず、目の奥が熱くなり、涙が落ちた。

深沢承弦はそれを見て眉をひそめる。

「やめろ。……お前、心の中にずっと別の男がいたんだろう?」

言葉は呆けたように彼を見る。

「そいつにもらったペンダント、ずっと首から外さなかったじゃないか」

複雑な目で見られ、言葉は反射的に胸元を押さえた。唇を強く噛み、涙を引っ込め、薄く笑う。

「送らなくていい」

そう言い捨て、彼女はスーツケースを引いて深沢家を出た。二度と振り返らない。

深沢承弦は玄関に立ち、細い背中が角を曲がって消えるまで見送った。

指先が、無意識にきゅっと締まる。

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