第2章
その夜、末永言葉は親友の林田咲子の家に身を寄せた。
温水真雲が帰国したと聞いた瞬間、林田咲子は怒りで顔を真っ赤にする。
「あなたが必死で世話してたとき、温水真雲はどこにいたのよ? なんで今さら戻ってきただけで、出ていくのが言葉のほうなの?」
末永言葉は手の中の離婚協議書を握りしめ、低い声で言った。
「……もういいよ。補償も、もらったし」
「どれだけ払ったか見せなさいよ!」
林田咲子が紙をひったくり、ずらりと並ぶ補償の項目に目を走らせる。ほんの一瞬だけ表情が揺れたが、それでも強がって吐き捨てた。
「だからって『離婚します』で終わりとか、ありえないでしょ。あなたを何だと思ってるの? 深沢家の家政婦?」
末永言葉は苦笑して、何も言えなかった。
「……これから、どうするの」林田咲子が不安そうに覗き込む。
「フランスに行って、勉強を続けたい」
言葉は自分の気持ちを、やっと口にした。
大学時代、彼女は国際的な服飾デザイン賞をいくつも獲り、指導教官からも卒業後はフランスで研鑽を積むよう勧められていた。けれど当時の彼女は、「深沢奥様」を完璧に演じることだけに夢中で、その機会を自分から手放した。
でも今は、結婚という夢が砕け散った。ならせめて、仕事の夢くらい追いかけたい。
林田咲子はしばらく言葉を見つめ、ため息を落とす。
「……最初から深沢承弦に嫁がなければ、今ごろ国際舞台に立ってたかもしれないのに」
末永言葉は首を横に振った。
「その話はやめよう。明日、用事があるから早いの。今夜は泊めて」
「何言ってんの」
林田咲子は切なそうに、彼女の肩を抱いた。
その夜、末永言葉は一睡もできなかった。
目を閉じるたび、写真の中で寄り添う深沢承弦と温水真雲の姿が浮かぶ。
分かっていたはずなのに、どうしてこんなに苦しいのか。
心の一部を抉り取られたみたいに、空っぽで、冷たい。
翌朝、末永言葉は裁判所へ向かい、離婚手続きを進めようとした。
だが、どれだけ待っても深沢承弦は現れない。
帰ろうとしたとき、スマホが鳴った。林田咲子からだ。
「言葉、ショーでトラブルがあって……! 来られる? 今すぐ!」
通話を切ると、末永言葉は彼女が送ってきた会場へ急いだ。
会場に足を踏み入れた瞬間、最も見たくない二人が目に入る。
最前列のVIP席に深沢承弦。隣には温水真雲。
アイボリーのロングドレスを纏い、肩へ流れる長い髪。温水真雲は横顔で微笑みながら深沢承弦に言葉をかけ、二人はやけに親密に見えた。
胸がきゅっと縮む。
裁判所に来なかった理由はこれか――ショー鑑賞。
二人を避けてそのまま裏へ向かおうとしたが、先に深沢承弦に見つかった。
「末永言葉。どうしてここにいる」
深沢承弦は眉をわずかに寄せ、反射的に温水真雲との距離を取る。
温水真雲は訝しげに末永言葉を見回し、上品に挨拶した。
「あなたが末永嬢? 偶然ですね」
「友人に用があって」末永言葉は視線を逸らした。
温水真雲は少し見つめてから、柔らかく言う。
「もしかして、私が承弦にショーへ付き合ってもらったの、気にしてます? ごめんなさい。帰国したばかりで友達が少なくて……頼れるのが承弦くらいしかいなくて」
「まさか」
末永言葉は淡く笑い、ふわりと深沢承弦へ視線を投げた。
「深沢社長。次に用事があるなら、先に連絡してくれます? 裁判所の前で、ずいぶん長く待たされましたから」
深沢承弦の目が沈み、黙り込む。
「用があるので。お二人の邪魔はしません」
末永言葉は言い置き、裏へ向かった。
彼女が去ると、温水真雲が好奇心混じりに深沢承弦へ聞く。
「今日、裁判所に行く予定だったの?」
「……ああ」
深沢承弦はどこか上の空だった。
温水真雲は申し訳なさそうに眉を下げる。
「ごめんなさい、知らなくて……」
「いい」
深沢承弦は無表情に答え、末永言葉が消えた方向を見続けた。
バックステージに入ると、林田咲子が目を赤くして駆け寄ってくる。
「言葉、ごめん……! せっかく作ったのに、モデルが足首を捻挫しちゃって……出られないの。代わりのモデル、知ってない?」
淡いブルーのドレスを見て、末永言葉は眉を寄せる。
結婚してからデザインから遠ざかり、モデルの伝手などあるはずもない。そもそもこのドレスだって、林田咲子に押し切られて隙間時間で描いたものだ。
林田咲子は焦って涙をこぼす。
末永言葉はすぐティッシュを差し出し、落ち着かせた。
「大丈夫。方法を考えよう」
すると林田咲子が言葉を上から下まで見て、突然手を掴んだ。
「言葉、昔ランウェイ歩いたことあるよね? 一度だけでいい、助けて」
「えっ……無理!」
大学時代、指導教官に「体型も所作もモデル向き」と言われたことはある。
けれど昨日、深沢承弦がメディアの前で離婚を公言したばかりだ。彼と初恋の女の目の前にドレス姿で出たら、どう書き立てられるか――想像しただけで気分が悪くなる。
「お願い! 本当に……作品を、もっと多くの人に見てほしいの!」
揺さぶられ、末永言葉の心が少しだけ揺れた。
服飾デザインは、彼女の生涯の夢。自分の作品が舞台で輝く瞬間を望まないデザイナーなどいない。
周囲を見回し、視線はメイク台に置かれた羽根の仮面で止まった。
その頃、客席で温水真雲が深沢承弦へ囁く。
「承弦、末永嬢って本当に友達に会いに来ただけかな?」
深沢承弦が眉を寄せる。
「どういう意味だ」
温水真雲は笑って言った。
「名門の奥様って、旦那さんの後をつけたりするって聞くし。末永嬢、あなたのこと心配で来たんじゃない?」
深沢承弦は言葉を返さず、考え込むように目を伏せた。
温水真雲は話題を切り替える。
「今日のフィナーレのデザイナーって、若い女の子なんでしょ? 知ってる?」
深沢承弦は首を振った。
「知らない」
そのとき、照明が落ちる。
ランウェイの幕が上がり、青いドレスに羽根の仮面をつけた女が、ゆっくりと歩み出た。
