第4章 この親不孝娘
振り向くと、エプロン姿の長島さんがゴミ袋を提げて立っていた。
顔を認めた瞬間、彼女の目の縁がみるみる赤くなる。
「お嬢様……! お嬢様です! 本当にお帰りになったんですね!」
末永言葉は喉の奥がきゅっと詰まった。
「長島さん……」
長島さんは末永家で長年働き、言葉のことを実の娘のように思ってくれている人だ。
「旦那様も奥様も、どれほどお嬢様を恋しがっていたか……」
涙を拭いながら言い、ふと声を落とした。
「奥様がね、この前、階段で足を踏み外して……脚を怪我して入院してらっしゃるのに、ずっとお嬢様のことを……」
末永言葉の顔色がさっと失せた。
「脚を……? 今、どうなってるの?」
こんな大事を、娘の自分が何も知らなかったなんて。
「病院では骨にヒビだって……」
長島さんは言いかけて、はっとしたように付け足す。
「で、でもお嬢様、慌てないで。奥様は今、容体は落ち着いて――」
落ち着いていられるはずがない。
再会が、こんな形だなんて。もしあと少し遅かったら――母に会えなかったかもしれない。
「どこの病院?」
末永言葉は長島さんの腕を掴み、震える声で尋ねた。
「第一病院の整形外科病棟です」
その言葉を聞くなり、末永言葉は踵を返して走り出した。
もう何も耳に入らない。胸の中にあるのは、ただひとつ。
早く病院へ。今すぐ、母に会わなきゃ――!
急ぎすぎて、石畳でヒールがつるりと滑り、転びそうになる。ふらつきながら角を曲がると、そこはがらんとしていた。
深沢承弦の車は、もうない。
深夜の通りは空っぽで、タクシーすら見当たらない。
末永言葉は路肩で立ち尽くし、慌ててスマホを取り出した。指先が震えて、画面をまともに押せない。堪えきれず涙がこぼれ、画面を濡らす。
そのとき、眩しいヘッドライトが照らし出した。
深沢承弦の車がゆっくりと彼女の前で止まり、窓が下がる。覗いたのは、苛立ちを隠さない顔。
「……まだ入らないのか」
さっき発車しようとした矢先、バックミラーに彼女が狂ったように飛び出す姿が映ったのだ。路肩で震えて立つ姿は、あまりにも――危うかった。
末永言葉はただ彼を見つめるだけで、唇が震えるのに声にならない。
深沢承弦は眉をひそめ、ドアを開けて降りると、彼女の前まで歩み寄った。
「何があった」
末永言葉は泣き声混じりに絞り出す。
「……病院に、行きたいの。お母さんが入院してて……でも……」
「乗れ」
不機嫌な口調のまま、深沢承弦は助手席のドアを乱暴に開けた。
末永言葉は一瞬呆けて、すぐ我に返り、慌てて乗り込む。
車内に沈黙が落ちる。
末永言葉は窓の外を見つめた。ネオンが夜の闇の中、流れるように後ろへ消えていく。涙だけが止まらない。
三年前、家を出た日のことが脳裏に蘇る。
門の前で、母は目を赤くして言った。
『言葉、本当にいいの? 愛してくれない男のために、家まで捨てるの?』
彼女は「いい」と答えた。
そして三年、振り返らなかった。
バックミラー越しに、深沢承弦は彼女の震えを見て喉仏を上下させる。何か言いかけて――結局、視線を逸らした。
車はほどなく入院棟の入口へ滑り込んだ。
末永言葉はドアを開けるなり飛び出し、病室番号を辿って走った。廊下の突き当たり、半開きの扉が見える。
隙間から覗くと、母はベッドに半身を起こし、左脚にはギプス。隣のベッドの患者と話していた。
「お姉さん、娘さんは? 入院してから見かけないけど」
母は少し黙ってから、笑って答えた。
「忙しいのよ。仕事が大事だから、迷惑かけたくないの」
忙しい。
――自分は、この三年、何に忙しかった?
別の男の世話をして、夜を明かして、食事を整えて。
母が怪我をしても、最後に知るなんて。
「あなた、優しいわねぇ。うちなら三日も来なけりゃ電話して怒鳴るわ」
隣の女性が笑う。
母は手を振った。
「子どもには子どもの生活があるもの。親は足を引っ張らないのが一番よ」
末永言葉は下唇を噛みしめた。涙が堪えきれず溢れ落ちる。
もう無理だった。
彼女は扉を押し開け、病室へ入った。
ベッドの母が反射的に顔を上げる。視線が末永言葉を捉えた瞬間――全身が固まった。
口元の笑みが止まり、目に薄い涙の膜が張る。
「……こ、言葉?」
震える声。見間違いを恐れるみたいに。
末永言葉は数歩で駆け寄り、その場に膝をついて母を抱きしめた。
「……お母さん」
その呼びかけひとつで、三年分の想いが決壊した。声にならず、ただ泣いた。
母の手が震えながら背中を撫でる。幼い頃、寝かしつけてくれたときみたいに、何度も、そっと。
「泣くことないよ。帰ってきたんだもの、いいことじゃない」
母の声も涙で濡れ、涙が末永言葉の髪へ落ちた。
隣の患者は気を利かせて顔を背け、黙ってくれた。
長いこと泣いて、末永言葉はようやく顔を上げた。赤い目で、母の脚を見る。
「お母さん……脚は? 医者はなんて」
触れようとしても怖くて、ギプスに指先をそっと当てるだけだった。
母は涙を拭って笑う。
「大丈夫。ちょっと転んだだけ。骨にヒビだって。養生すれば治るよ。心配しないで」
そして、軽い調子で付け足す。
「もう歳だからねぇ。足元も見えにくいし、骨も昔ほど丈夫じゃない。ちょっとしたことで転ぶのよ」
それから末永言葉の手を取って、顔を覗き込む。
「それより……どうしてそんなに痩せたの? ちゃんと食べてる?」
末永言葉は鼻の奥がつんとして、視線を落とした。
答えられない。
深沢家ではいつも先に深沢承弦に食べさせて、残りを適当に口にしていたこと。夜更かし続きで、朝は早く起きて朝食を用意していたこと。真心が返ってくると信じた末に、初恋が戻った途端、ゴミみたいに捨てられたこと。
言えるはずがなかった。
「……大丈夫」
それしか言えない。
母が何か言いかけた、そのとき。
病室の扉が外から押し開けられた。
末永言葉が顔を上げると、父が立っていた。
驚愕の目が一瞬、彼女を捉え――すぐに、底の深い怒りへ変わる。
「何しに来た」
低い声が、鈍い刃みたいに突き刺さる。
末永言葉は立ち上がり、唇を震わせた。
「お父さ――」
「父さんと呼ぶな」
父は保温容器を机にどん、と置いた。胸が激しく上下する。
「三年前、あの男について行ったとき……二度と帰らない顔してただろ。今さら何の真似だ。誰に見せるために戻ってきた」
「違う、私は――」
末永言葉は説明しようとした。
「黙れ!」
父の怒鳴り声に、末永言葉の肩がびくりと跳ねる。
「お前の母さんがどんな状態か分かってるのか。入院して三日。一本の電話もない! 近所に『娘さんは?』って聞かれて、俺は何て言えばいい? 『娘は寝たきりの夫の世話で忙しい』って言うしかなかった!」
末永言葉の血の気が引いた。
言い訳が喉に詰まる。家のことを忘れたことなど一度もないのに、言葉にした瞬間、余計に残酷になる気がして――何も言えなかった。
父は扉の外を指差す。指先が震えていた。
「出ていけ」
そして、吐き捨てるように叫ぶ。
「不孝者。今すぐ、出ていけ!」
