第7章 言葉の丈夫さ
深沢承弦は末永言葉を抱きかかえたまま部屋を出た。廊下にはもう人だかりができていて、皆が首を伸ばし、こそこそと様子をうかがっている。
だが彼は、まるで何も見えていないかのように、そのまま一直線に外へ向かった。
「深沢社長」
ボディガードが追いついてくる。「あの連中は……」
「連れて帰れ」
振り返りもしない。声は氷みたいに冷え切っていた。
「かしこまりました」
言葉は彼の腕の中で小さく縮こまり、顔を彼の胸元へ押しつけたまま、震えが止まらない。
彼のスーツのジャケットが彼女を包み込み、ほのかに冷たい香りが鼻先をくすぐる。
もう何も考えたくない。そう思って、言葉は目を閉じた。睫毛がかすかに揺れる。
車は入口に待機していた。
深沢承弦は後部座席へ彼女をそっと座らせ、自分は反対側から乗り込むと運転手に言う。
「病院へ」
車が動き出す。
言葉はシートに凭れ、窓の外を流れていく街並みをぼんやり見つめた。
隣で深沢承弦は、彼女の腕や首元に残る薄い赤い痕を視界に入れた瞬間、胸の奥がちくりと刺されるように痛んだ。
「痛むか」
言葉は一拍遅れて意味を理解し、首を横に振ってから、なぜかまた小さく頷いてしまう。最後には、力のない笑みだけを浮かべた。
「……大丈夫」
深沢承弦の喉仏が小さく上下する。言いたいことがあるはずなのに、結局、何も言わなかった。
ほどなく車は病院へ着いた。
深沢承弦は検査に付き添い、傷の処置も薬の手配も手際よく進める。
言葉は終始おとなしい。医師に問われれば答え、看護師に言われれば黙って腕を上げた。
ベッドに横になる頃、ようやく瞼が重く落ちていく。
深沢承弦はベッド脇に立ち、眠る彼女を見つめた。
病室は静かで、言葉の顔は小さく、白さが透けるほどだ。眠っていても眉間がわずかに寄っている。
彼は椅子に腰を下ろし、手を伸ばして頬に触れようとして――途中で指が止まった。空中で硬直したまま、結局ゆっくり引っ込める。
夕方。
言葉が目を覚ます。
窓の外はすっかり暗くなり、病室には枕元の灯りだけが残っていた。
視線を巡らせる。
深沢承弦はいない。
身体を起こした瞬間、傷が引きつれて「……っ」と小さく息が漏れた。
そのとき、扉が唐突に開いた。
言葉が顔を上げると、入ってきた男に一瞬、目を瞬かせる。
濃い灰色のコート。すらりとした体格。彫りの深い顔立ち。口元には淡い笑み。
「言葉」
言葉はぱちりと瞬きし、声を漏らした。
「片桐景真……?」
片桐景真は果物籠と花束を提げて近づき、サイドテーブルに置く。椅子を引いてベッド脇に座ると、彼女の顔をじっと見て眉をわずかに寄せた。
「どうしてこんなことに」
言葉は肩をすくめる。
「ちょっとした事故。平気」
そう言いながら、喉の乾きに耐えきれず軽く咳き込んだ。
片桐景真はすぐに立ち上がり、枕元のコップを手に取って温度を確かめ、彼女の手へ戻す。
「ゆっくり」
言葉は受け取り、一口飲む。ぬるい水が喉を潤した。
顔を上げると、片桐景真は穏やかな目で見ている。
何年ぶりだろう。
もしあの頃、深沢承弦に嫁ぐと決めなければ――いま隣にいるのは、本来この人だったはずだ。
片桐家と末永家は世交で、両家は彼女の大学卒業後の縁談までまとめていた。
そこに、深沢承弦が現れた。
片桐景真は何も言わなかった。ただ、彼女が海外へ発つ日、短いメッセージだけを送ってきた。
『幸せを祈る』
それきり、連絡は途絶えている。
「どうして帰国したの?」
言葉が尋ねる。
「仕事だよ」
片桐景真は笑って言った。
「こっちに支社を作った。様子を見に来ただけ」
言葉は頷く。林田咲子に聞かされた「あの活動」と、SHの名が頭をよぎった。
片桐景真はいま、SHのアジア担当だったはずだ。
「今日のあの件……」
言いかけた瞬間、片桐景真の表情が一瞬だけ沈む。
「聞いた。咲子から」
落ち着いた声で続ける。
「SHを騙った連中だ。もう調べてる。安心しろ、逃がさない」
言葉は彼を見つめ、短く言った。
「……ありがとう」
片桐景真は手を振り、それから少し間を置いて、ふと尋ねた。
「言葉。首のペンダントは?」
言葉は一瞬固まる。深沢家を出てから――つけていない。
「外した」
何気なく答えただけなのに、胸の奥がちくりと痛んだ。
片桐景真は頷き、それ以上追及しない。柔らかく笑って言う。
「外して正解。あれ、デザインが古い。今度、新しいのを贈るよ」
言葉が何か言い返そうとした、そのとき――扉がまた開いた。
深沢承弦が立っていた。手には買ってきた粥と果物の入った袋。
だが視線が片桐景真に落ちた途端、空気がひやりと冷える。
片桐景真も気づき、視線を上げた。
二人の目が、病室の空気を挟んでぶつかる。
「言葉」
深沢承弦は袋をサイドテーブルに置き、片桐景真へ目を向けた。
「こちらは?」
言葉が口を開く前に、片桐景真が立ち上がって微笑み、手を差し出す。
「片桐景真です」
深沢承弦はその手を見ても、すぐには握らない。
「片桐景真……」
名前を反芻するように呟き、目が沈む。
差し出された手は宙に浮いたままなのに、片桐景真は少しも気まずそうにしない。笑みを崩さず待っている。
やがて深沢承弦がようやく手を伸ばし、短く握った。すぐ離す。
「深沢承弦だ」
そして言葉を見据え、言い切る。
「言葉の夫だ」
その一言に、頑なな執着が一瞬だけ滲んだ。
病室の空気が、微妙に軋む。
言葉は呆けたように彼を見上げる。
夫? 少し前、宴席で離婚を公言したくせに。
言葉にならない苦さが胸に広がり、彼女は目を伏せた。もう彼の表情を見たくなかった。
片桐景真は笑みを保ったまま言う。
「深沢社長、冗談を。深沢家の宴で、社長は公に言葉との婚姻解消を宣言なさったはずですが」
深沢承弦の顔色が一瞬だけ変わる。
「それは俺たちの問題だ」
声がさらに冷たく落ちた。
片桐景真は穏やかな口調のまま続ける。
「ええ、お二人の問題です。ですが――幼い頃から一緒に育った友人として、言葉のことが心配で」
幼い頃から。
深沢承弦の瞳孔がわずかに縮む。
言葉が肌身離さずつけていたペンダント。
さっきの『新しいのを贈る』という言葉。
彼女の心には、ずっと別の男がいる。
――それが、この男なのか。
胸を強く掴まれたように息が詰まる。
「……なるほど。幼馴染か」
深沢承弦は淡々と言った。
だが胸の奥には、重い石でも沈んだみたいな圧迫感が居座っている。
片桐景真は静かに彼を見て、口角をわずかに上げた。
「言葉」
そして優しく言葉へ向き直る。
「休め。今日は帰る。明日また来る」
コートを手に取り、深沢承弦の横を通り過ぎようとして――足を止めた。
「深沢社長、失礼」
深沢承弦は動かない。
二人が数秒、無言で向き合い、空気が張り詰めていく。
言葉はこめかみを押さえ、疲れた声で言った。
「……二人とも、出ていって。休みたい」
深沢承弦が言葉を見る。
ベッドに凭れた彼女の顔色はまだ悪い。それでも瞳は澄んでいて、彼が想像したほど脆くはない。
片桐景真は彼女に一度だけ目を向け、頷いた。先に扉を押して出ていく。
深沢承弦はその場に残り、言葉を見たまま動かない。
言葉が顔を上げる。
「……まだ何か?」
その視線は、見知らぬ相手を見るみたいに静かだった。
深沢承弦の胸が、ぎゅっと痛む。
数秒の沈黙のあと、ようやく低く言った。
「粥……冷めないうちに飲め」
それだけ言い残し、背を向けて去った。
扉が、そっと閉まる。
