第8章 盗用
数日後。
末永言葉は林田咲子の家のリビングで、デザインの手稿を広げていた。
紙はところどころ黄ばみ、角がわずかに反っている。
三年前のものもあれば、大学時代のものもある。
一枚、また一枚。
ページを繰るたび、指先が懐かしい線をなぞり、瞳の奥に少しずつ光が戻っていった。
林田咲子がコーヒーを運んできて、隣に腰を下ろす。
「どう? ひらめいた?」
末永言葉はふっと笑う。
「古いのばっかり。全部、描き直さないと」
「でも、締め切り明後日だよ」
「間に合う」
ペンを取って、手稿に線を落とす。
カリ、とペン先が紙を噛んだ瞬間――世界の音がすっと遠のいた。
林田咲子は、彼女の横顔を見つめて小さく笑い、それ以上は何も言わなかった。
二日後。
国際デザインコンテスト会場。
展示ホールは眩い照明に満ち、長い受付カウンターには人がびっしり。メディア席ではフラッシュが絶え間なく弾けている。
末永言葉はシンプルなベージュのスーツ姿で、手稿の入った封筒を抱え、人波の中に立っていた。
顔を上げる。
ホール中央の巨大スクリーンには、一次通過作品の名前が次々と流れていく。
「言葉」
背後から、聞き慣れた声。
振り向くと、片桐景真が微笑みながら歩み寄ってきた。深い藍のスーツがよく似合い、立ち姿だけで人目を引く。
「あなたも来たの?」
末永言葉は少し驚いた。
片桐景真が、審査員?
片桐景真は頷く。
「招かれて審査にね。作品は? もう提出した?」
「今から出すところ」
「頑張って」
温かな視線が、まっすぐ彼女を捉える。
「君の作品、楽しみにしてる」
末永言葉は口元を緩めた。
「ありがとう」
そのとき、入口がざわついた。
ぱぱぱっとフラッシュが激しく瞬き、人の流れが割れて道ができる。
深沢承弦が現れた。
黒いスーツに、冷えた眉眼。相変わらず、嫌でも視線をさらう男。
そしてその腕に寄り添うのは、温水真雲。
シャンパン色のロングドレス、上品な微笑み。まるで「隣は自分の席」と言わんばかりに、自然な仕草で彼の腕を取っている。
――温水真雲も、この大会に出るのか。
末永言葉は一瞥だけで視線を切り、片桐景真に言った。
「行こう。提出してくる」
提出はすぐに終わった。
あとは一次審査。参加者はホールで待機する。
末永言葉は隅のほうに立ち、スマホで過去のデザイン画像を見返していた。
時間が過ぎる。
ざわめきが、じわじわと薄れていく。
顔を上げると、審査室から審査員たちが出てきた。
先頭は白髪の老デザイナー。険しい表情で、手には二つの書類。
会場の視線が一斉に集まる。
「皆さま」
老デザイナーが口を開く。声は重く、厳粛だった。
「本大会は公平公正を第一とし、盗作行為は一切認めません」
空気が凍りつく。
末永言葉の胸が、どさりと沈んだ。スマホを握る指先に力が入る。
老デザイナーは人々を見渡し、ある一点で視線を止めた。
「温水真雲さん、末永言葉さん。前へ」
視線が突き刺さる。
末永言葉は一瞬だけ固まり、すぐに足を動かした。
温水真雲も反対側から歩み出てくる。顔色がわずかに揺れた。
二人が並ぶと、老デザイナーは机に二枚の手稿を広げた。
「この二作品は設計理念が極めて近く、核となる要素の扱いもほぼ一致しています。説明が必要です」
会場に、ひそひそと囁きが走る。
末永言葉は視線を落とし――息が止まった。
一枚は、自分の作品。
三年前に描き、何度も徹夜して修正し続けた、あの手稿。
そしてもう一枚は、温水真雲の作品。
線も構造も、細部の処理まで――まるで写し取ったように同じ。
その瞬間、頭の中で何かが爆ぜた。
胸が、ぎゅっと握り潰される。
これは彼女が幾晩も眠らずに描き上げたものだ。深沢家の冷え切った日々の中で、唯一「自分の手の中に残ったもの」だった。
それが、どうして温水真雲の手に?
「私は盗作していません」
温水真雲が先に口を開く。委屈そうに眉を寄せて。
「これは私のオリジナルです。構想から完成まで、一か月かかりました」
老デザイナーが末永言葉を見る。
「末永さん、どう言いますか」
末永言葉は答えられなかった。
二枚の手稿を見つめたまま、脳内に映像が走る。
深沢家の書斎。
引き出しの奥に入れていた自分の手稿。
嫁いでから、唯一持ち込んだもの。たまに取り出しては線を足し、修正し――自分が自分でいるための、小さな逃げ道だった。
そして温水真雲は帰国後、深沢家に出入りしていた。
――そういうことか。
末永言葉は顔を上げ、人波の向こうにいる深沢承弦を捉えた。
彼は眉を深く寄せ、顔色を暗くして立っている。
笑いがこみ上げる。
三年の結婚生活で、自分が差し出したものの代償がこれ? 心血を、手渡しで「献上」されたってこと?
「盗作?」
「温水真雲が? 国際的に有名なデザイナーだぞ」
「末永言葉って誰だよ、聞いたことねぇ」
囁きが刃のように刺さる。
末永言葉の指先は氷みたいに冷えた。
温水真雲は伏し目がちに睫毛を震わせ、被害者の顔を作る。
けれど、その瞳の奥を一瞬だけ走った得意げな光を――末永言葉は見逃さなかった。
温水真雲は確信しているのだ。
手稿は「きれいに片づけた」。証拠など残っていない、と。
審査席の誰かが、苛立った声で告げた。
「末永さん。もし有力な証拠を提示できない場合、盗作の疑いとして失格。規定により業界へ通達となります」
末永言葉の手が、わずかに震えた。
ここで通達されたら終わりだ。
一生、「盗作者」の烙印。二度と頭を上げられない。
温水真雲の視線が、彼女の震える指先をかすめる。
その口元が、わずかに上がった気がした。
「待ってください」
そこへ、別の声。
片桐景真が審査席から立ち上がり、壇前へ歩み出た。
「片桐社長」
温水真雲の表情が一瞬だけ曇る。すぐに言った。
「審査員なら、避嫌すべきでは?」
片桐景真は淡々と彼女を見た。
「審査員だからこそ、公平を守る」
そして会場へ向け、落ち着いた声で続ける。
「末永言葉さんの作風と技法は、大学時代に国際新人賞を受賞した作品と一貫しています。年長の審査員なら、見れば分かるはずだ」
数人の年配審査員が目を合わせ、わずかに頷いた。
片桐景真は言葉を重ねる。
「また、盗作の断定には証拠が必要です。現時点で双方の主張が割れている以上、知名度だけで結論を出すべきではありません」
温水真雲は唇を噛み、内心で冷笑した。
写真を撮って戻した。原本にも痕跡は残していない。誰が末永言葉のものだと証明できる?
――証拠がなければ、どれだけ言っても空論だ。
末永言葉は片桐景真の背中を見つめ、目の奥が熱くなった。
孤立無援の場所で、立ってくれる人がいる。
けれど、これだけでは足りない。
彼女は分かっていた。
ざわざわとした囁きが耳を刺し、意識がふいに十八歳へ引き戻される。
表彰台の上。ライトを浴びて、世界が自分のものだと信じた、あの頃。
三年。
一人の男のために自分を小さく折り畳み、夢なんて最初から無かったように装ってきた。
その結果が、「何者でもない」扱い。
そして今、最後に残ったものまで奪われる。
――もう、終わらせる。
末永言葉は深く息を吸い、喉の酸っぱさを飲み下した。
爪が掌に食い込み、痛みが頭を冴えさせる。
顔を上げたとき、瞳の揺れは消えていた。
温水真雲の作り物の委屈顔。
ひそひそと笑う群衆。
審査席の冷たい目。
すべてを見渡し、末永言葉は言った。
声は、広いホールの隅々まで届くほど澄んでいた。
「証拠があります」
