第1話
里香の視点
午後六時になってようやく、水原和也からメッセージが届いた。――誕生日パーティー、開始が五時に前倒しになった、と。
手元の実験を放り出し、土砂降りの雨の中へ飛び出してケーキを受け取りに行った。
宴会場の扉を押し開けたときには、長い髪はぐっしょり濡れ、雫が毛先からスカートの裾へと落ちていた。
中はすでに賑やかだった。笑い声、グラスが触れ合う音が四方から押し寄せる。人混みの向こう、中央のテーブルに目が止まった。――水原蓮が、和也とひとりの女の間に座っている。女は蓮の手を握り、その体を和也のほうへ寄せ、親しげに笑っていた。
足が止まる。
顔に貼り付けていた笑みが、ゆっくりと剥がれ落ちていく。残ったのは、骨まで染みるような冷えだけ。
あの苦しい出産の痛みは、今も鮮明だ。五年。私は丸五年、耐えてきた。それなのに――残っていた希望が、音を立てて崩れた。広がるのは底なしの絶望。
私はケーキの箱を近くのテーブルに置き、ペーパーを数枚抜き取って、濡れた髪の雫をゆっくり拭った。
黒の控えめなスクエアネックのワンピース。無造作にまとめた髪が、白鳥のような首筋を見せる。すっぴんでも、ここにいる誰にも劣らない――そう自分で思える程度には。
ほどなくして、背後でひそひそ声がした。
「……あれ、白石家のお嬢様じゃない?」
「そうそう、妊娠で迫って無理やり水原家に入り込んだ女。和也さんが言ってたわ、あんなの妻にする価値ないって」
和也と公の場に出るたび、いつもこうだ。昔なら胸が痛んだ。今は、ただ鈍い。
私はその二人へ微笑んで見せた。彼女たちは途端に気まずそうに視線を逸らした。
ケーキ箱を持ち直し、私は一歩ずつ蓮へ近づいた。
「ハッピーバースデー、宝物」
膝をついて笑いかける。
「ママ、プレゼント持ってきたよ」
けれど、さっきまで朗らかに笑っていたはずの男の子の顔に、年相応ではない嫌悪が浮かんだ。蓮は私を睨み、手にしていたフライドポテトを掴んで投げつけてくる。
「なんで来たの! 呼んでない!」
「蓮」
すぐに和也の低い声が響いた。わずかな不機嫌を含んで。
でも言ったのは、これだけだった。
「食べ物を投げるな。礼儀を忘れるな」
蓮の無礼が私に向けられたこと自体は、問題だと思っていない。
科学的に、丁寧に。五年、根気強く向き合ってきた。――それで育ったのが、この子。
私は立ち上がり、静かな声で告げた。
「蓮。私はあなたのママよ」
「里香、子どもは考えずに口から出すんだ。気にするな」
蓮と和也の間の女が立ち上がった。赤いベアトップドレス。栗色の髪が耳元に落ち、穏やかな表情を作っている。
和也の会社の秘書――石川寧々。
「さっきのはただの冗談よ。蓮に、あなたをからかってって言っただけ。真に受けないで」
柔らかな笑み。けれど瞳の奥に、露骨な挑発が見えた。
「つまり、私の息子に実母を侮辱させたのね」
私は軽く笑った。
「さすが水原グループの社員だわ」
「里香」
和也が立ち上がる。
今日は珍しく、淡いシルバーのスーツ。照明の下で目を引く。真っ直ぐな肩のラインが圧を放ち、薄い唇と深い眼差しは同じくらい冷たい。
入ってきた瞬間、彼の顔に一瞬だけ柔らかな笑みが浮かんだのを見た。――寧々に向けたものだ。私に向き直った今、いつもの無表情に戻っている。
「気分が悪いのは分かる」
彼は言った。
「パーティーの時間を変えて、事前に知らせなかった。そこは俺が悪い。だが、他人に八つ当たりするな」
寧々は彼の秘書であり、幼なじみでもあって、彼のスケジュールを握っている。私たちの生活まで、ついでに支配しているみたいに。結婚式の夜、彼女は和也に国際会議を入れ、私は寝室でひとりだった。和也は何も問題にしなかった。今回の時間変更も、彼女の手配でないはずがない。
けれど、もうどうでもよかった。
「いいわ」
顎を上げ、彼を見据える。
「ただ……少し、哀れだと思っただけ」
和也は眉をひそめたが、追及しなかった。
「こんなブサイクなケーキいらない!」
蓮がテーブル脇の箱に気づき、手のひらで叩き落とした。箱が床に落ち、クリームが派手に飛び散る。
「寧々が買ったケーキがいい!」
見上げる瞳は、寧々へ熱を帯びていた。
「そのケーキ、グルテンが入ってる」
床を見下ろして淡々と告げる。
「食べたらアレルギーが出るわ」
「大丈夫よ。私が買ったのはオールオーガニック。蓮がアレルギーなんて起こすはずないもの」
寧々は気遣うように笑った。
「プレゼント買ってきた? 限定のレーシングカーって約束したよね!」
蓮は私を強く押した。
「持ってこないなら帰れ! 役立たず! 寧々のほうがマシ!」
よろけて一歩下がり、「家族三人」から距離ができた。言葉は棘になって、狙いすましたように胸に刺さる。
「そんな態度なら、プレゼントはあげない」
すると和也が言った。
「今日は蓮の誕生日だ。子ども相手に張り合うのか。感情を子どもにぶつけるな」
淡々とした口調。悪いのは私だと言わんばかり。
彼は近づき、声を落とした。
「寧々は最近、家で色々あってな。家の温かさが必要なんだ。だから蓮のそばにいさせた。お前は不機嫌になるな」
「私が不機嫌になると分かっていて、連れてきた」
笑みの中に、皮肉が満ちた。
「和也。もし私が――寧々を帰らせるか、それとも離婚か――って言ったら、どっちを選ぶ?」
彼の表情を逃さないよう、私は視線を固定した。
驚きは一瞬だけ。すぐに硬い顔に隠され、代わりに露骨な苛立ちが浮いた。
「里香、やめろ。文句があるなら家で言え」
「やめてない。私は本気よ」
私は静かに言った。
「妻として、あなたを誇りに思った時期もあった。けど……私たちはもう無理」
離婚の話をするつもりだった。けれど寧々が近づき、甘い声が胃の奥をむかつかせた。
私は踵を返し、まっすぐ出口へ向かった。
その前に一度だけ振り返り、蓮へ告げる。
「今日から、寧々があなたのママよ」
バッグの中には、限定のレーシングカーが入ったまま。
宴会場を一歩ずつ出る。足取りは軽いのに、胸の奥では何かがゆっくり流れていた――涙なのか、血なのか分からない。
離れるのは、悲しい。けれど残れば、日々の献身と無関心の中で、心がゆっくりと腐っていくだけだ。
なら、手放そう。ここで。
