第10話

里香の視点

晩秋のO市。空気にはまだ微かな温もりが残っているというのに、研究室の中は熱気に満ちていた。

数か月に及ぶ「高安定体外神経ネットワーク培養」プロジェクトが、無数の失敗の末にようやく突破口を開いた。最新ロットのデータは、見ているだけで心拍数が跳ね上がるほど美しい。

「白石さん、第三対照群も出ました! 完全に想定通りです。いや、シミュレーション結果よりずっといい!」

悠はプリントアウトしたばかりのグラフを抱え、声を震わせていた。

私はモニターで跳ねる波形を見つめ、長く強張っていた口元をようやく微かに緩ませた。

これは、研究の現場に復帰してから私が単独で主導した初の大型プロジェクトだ。成功は単なる技術的突破を意味するだけではない。私、白石里香が、自分の力だけで立てるという証明でもある。

「みんな、お疲れさま」

私はぐるりと見回し、疲労と興奮の入り混じった顔を一つひとつ見つめた。

「全データを整理して、完了報告の準備を。悠、前にリストアップした提携先候補に連絡を開始して。神経ネットワークとBCI分野の医療テック企業を最優先で」

「了解です!」

自室に戻って椅子に腰を下ろした途端、スマホが鳴った。

見知らぬ市内の番号。プレフィックスは、著名な投資機関のものだ。

「突然のお電話失礼いたします。峰景キャピタルの投資部総部長、内本夏輝と申します。我々は貴研究室の進捗を注視しておりまして、その研究領域に強い関心を抱いております。ぜひ一度、お時間をいただけないでしょうか」

私は居住まいを正した。――峰景キャピタルは、まさに候補リストのトップ3に入る企業だ。

来週面談する約束を取り付け、通話を切る。すると間髪入れず、別の大手バイオテック企業から着信があった。成功したデータこそが最高の広告塔だ。次々と応対するうちに、胸の奥に居座っていた不安が、ようやく少しだけ解けていくのを感じた。

しかし、二度目に内本夏輝と話し、デューデリジェンスの詳細を詰めようとしたとき、彼の口調が微妙に変わった。

「白石さん。提携の件ですが、社内でさらに評価を重ねる必要が出てまいりました。それに加え、市場からいくつかフィードバックがありまして、確認させてください」

胸が沈む。

「どうぞ」

「匿名の通報によりますと、貴方の主要な研究成果が、水原グループの未公開内部資料と大きく重複している、と。さらに、婚姻関係にある期間に不正な手段で入手した可能性がある、という指摘です」

慎重な言い回し。だが意味は明白だった。――誰かが私の学術的な信用を疑い、結婚を足場に企業機密を盗んだと告発しているのだ。

途端に表情が抜け落ちる。スマホを握る指の関節が白く強張った。

「私の研究は、設計思想から実験計画、結果データに至るまで、すべて完全な記録が残っています。研究室の全員が証言できます」

相手は数秒沈黙した。

「もちろん、我々は白石さんの職業倫理を信頼しております。ただ現状では、前へ進めるのは難しい。今回は見送らせてください」

通話が切れた。

直後、悠からメッセージが連続で届いた。学術フォーラムを見ろ、と。

PCを開く。――スレッドが乱立していた。「学術詐欺に警戒せよ」「枕営業でのし上がった女科学者」……。名指しこそされていないが、プロジェクトが注目を集めている今、界隈の人間なら一目で分かる。

私は極めて冷静にマウスを動かし、関連ページを一つ残らずスクリーンショットで保存した。投稿ID、時刻、内容。一つも漏らさず、すべて悠に転送する。

「このIDの出どころを追って。あと、全プロジェクトデータを再暗号化。遠隔バックアップも徹底して」

そこまでして私を潰したいなら、受けて立つ。

さらに数日後、和也から電話が来た。

「里香、話し合う必要がある。蓮の今後の教育方針と、協議書の細部についてだ。直接会って整理したい」

私はPC画面のスクショを一瞥し、カレンダーへ目を移した。

「日時と場所は」

「明日の午後二時」

「分かった」

そのまま通話を切る。

翌日の午後、私は時間通りに到着した。

白のシャツにスラックス。長い髪を無造作に束ね、すっぴん。冷ややかな空気を纏っている。

店員に案内され、二階の個室へ。扉を押し開けた瞬間、私の足がほんの僅かに止まった。

中にいたのは和也だけではない。ひとりの老婦人が座っていた。――和也の祖母、水原百合子。厳しさで知られ、私が水原家に入った当初も散々苦しめられた相手だ。

彼女は私を上から下まで値踏みするように眺めた。視線には隠しきれない品定めと嫌悪が混じっている。指先で腕輪を撫でながら、ゆっくりと口を開いた。

「里香。久しぶりね」

「おばあ様」

私は微かに頷き、卑屈にも尊大にもならず席に着いた。

店員がコーヒーを置き、音を立てずに出て扉を閉める。コーヒーの香りが漂うのに、空気は張り詰めたままだ。

百合子はカップを手に取って一口飲み、コトリと置く。私へ落ちた視線も、その口調も、お世辞にも友好的とは言えなかった。

「最近、愉快な噂を耳にしたの。――水原家の嫁が分をわきまえず、夫と子どもを顧みずに外で好き放題やっている。おまけに水原の看板を借りて、表に出せない商売をして家の名を汚している、と」

少し間を置き、眼光を鋭くする。

「水原家は最高の家柄ではないかもしれない。でもね、名誉は何より大事なの。水原の人間なら、言動には節度と体面が必要よ。分かるわね?」

露骨な脅し。

私はその視線を受け止め、ふっと笑みをこぼしてから、隣でずっと黙っている和也を見た。

静かな声で問う。

「あなた、まだ伝えてないの?」

彼の眉が僅かに動き、私を見る。

私は一語ずつ、はっきりと告げた。

「私たち、離婚します」

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