第2話

里香の視点

宴会場を出て研究室に戻ってから、まだ二時間も経っていなかった。スマホが震えだす。

機械の稼働音が大きく、気づいたときには和也からの着信を三回も逃していた。彼がこんな頻度で連絡してくることはない。私は急いでかけ直した。

「ごめん、さっき気づかなくて——」

「里香」

落ち着いた声。だが不機嫌が混じる。

「蓮がアレルギーを起こした。病院に来い」

私はスマホを握り締めた。

蓮のアレルギーはいつも重い。息が荒くなり、小さな顔が真っ赤になる。舌が腫れて口の外に出そうになったこともある。あの光景は今も脳に焼き付いている。

「今、どうなの?」

無意識に入口へ向かっていた。

「寧々がついてる。落ち着いた。だが、お前は母親だ。来てやれ」

足が止まった。

寧々のケーキで入院。なのに『落ち着いたから母親として来い』? 誰のために。あの二人と蓮のために?

「落ち着いたならよかった」

声がどこか空っぽだった。

「寧々は家の温かさが必要なんでしょう。じゃあ、そのままそばにいればいい。蓮も彼女が好きみたいだし」

「里香!」

受話口越しに怒気が走る。

「何を拗ねてる?」

彼の顔が目に浮かぶ。怒っているのに、抑えている。いつもの苛立ち。説明しても通じない。私も、もう合わせたくなかった。

そのとき、ガラス扉の向こうで装置のエラーランプが点滅した。

最後のサンプルだ。失敗すれば、十五日かけた培養が最初からになる。心臓が縮む。

「今、手が離せない。切る」

電話を切り、スマホをマナーモードにして、私は実験の立て直しに没頭した。

翌朝、ようやく片が付いて未読を確認する。

和也からはもう一度着信があったが、私は出ていない。彼からの追いメッセージはなかった。

代わりに共同研究者の九条悠から、焦った長文が届いていた。――大変なことになった、と。

すぐ折り返す。

「どうしたの?」

「投資が撤退だよ」

崩れそうな声。

「昨夜、俺にだけ通知が来た。君に連絡したけど返事がなくて……今朝、決定した。正式に撤退」

「なんで一晩しか猶予がないの? 最初は順調だったじゃない。いきなり撤退なんて——」

私は少し黙り、苦く笑った。

「大丈夫。私が処理する」

分かりきっている。投資家は――和也だ。

数年前、私は予期せぬ妊娠で仕事を辞め、五年専業主婦をした。今年蓮が小学校に上がる。ようやく再出発しようとした。二か月前、和也に話したら同意し、彼自身が出資までしてくれた。

それが今、私が言うことを聞かず、仕事で電話を切った。――それだけで撤資。

一晩の猶予は、反省して病院へ来いという合図だったのだ。

彼は昔から、私を操る方法をいくつも持っていた。

出前の朝食を頼み、連絡先一覧をスクロールする。親指が、久しく連絡していない名前の上で止まった。

数秒迷ってから、かけた。

まだ7時。彼が起きる時間じゃない。しかも一年以上話していない。最後は喧嘩別れだった。切られるか、怒鳴られるか。――そう思った。

けれど十秒で繋がった。眠たげで怠い声。

「里香、死んだのか?」

「春、死んでない」

気まずさを隠せず言う。

「生きてる。……会いたくなった」

「で、用件は?」

電話の向こうで、白石春の声がすぐに醒めた。刺々しい皮肉。

「また助けろって? 旦那にいじめられた? 今度は先に俺に連絡したのは、また両親を病院送りにしたくないからか?」

唇が動く。小さく言った。

「ごめん」

あの頃、私は家の反対を押し切って和也と結婚し、家族と決裂した。結婚生活がうまくいかず、何度か連絡したが、揉めるたびに結局和也側に戻った。両親も兄も、私に傷つけられ続けた。

「謝罪は受け取らねえ」

春は鼻で笑った。だが怒りは半分以上消えている。

「言え。何をやれって?」

この口調なら大丈夫だ。私は甘えるように言った。

「研究室に投資が必要なの。だいたい八億から十億。春、助けてくれる?」

「お前、働いてんのか?」

驚いた声。

「どんな研究室だ。料理研究か? 旦那と子どもがもっと喜ぶ味付けでも開発してんのか」

相変わらず毒舌。

「神経ネットワークの培養。ちゃんとした研究」

「やっと本気で働く気になったか」

満足げな響き。

「十億? いいぞ。白石さん、他にご要望は?」

久しぶりの茶化しに、思わず笑った。

「それと……パパとママに、それとなく聞いてくれない? いつなら私、帰っていいのか。許してくれるのか」

春が少し黙る。

言い訳を考えかけた、その時。受話口の向こうで、子どもの弾んだ声がした。

「里香おばさん、帰ってくるの? 今すぐおじいちゃんとおばあちゃんに言う!」

続けて別の声。

「おばさん、蓮も来る? この前オレのおもちゃの車壊したよね。今度は叩いていい?」

私は吹き出した。白石邸で蓮が好き放題した時のこと、和也が私を止めてしつけさせなかった場面が蘇る。

……寧々のほうが、あの子の『ママ』に向いているのかもしれない。

「遊んでこい」

春が息子を追い払ってから訊く。

「今回は本気で和也と離婚するのか?」

家族は最後通牒を出していた。離婚しないなら帰ってくるな、と。

「うん。もう言った」

目を閉じる。

「でも……」

和也は本気にしていない。祖父の水原治夫だって簡単に離してくれない。

春は察した。

「決めたなら手伝う。ちょうど人手がほしい案件もある。S市に数日出張して来い。和也から距離を取って、頭も冷やせ」

少し間を置き、付け足す。

「それと、見合いも何人か用意しとく。若くて礼儀正しくて金があって、お前を大事にする男」

「春!」

私は咳払いした。

「まだ正式に離婚してない!」

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