第5話
里香の視点
春が動くと、攻撃的なコメントはあっという間に消え去った。嫌がらせの電話やメッセージもすべて記録され、警察へと引き渡された。
結果は予想通りだった。――すべて同じ業者の工作。黒幕が誰かなど、想像するまでもない。
だが今は、報復している暇はない。春から割り振られた案件は最先端の横断領域で、新しい環境のテンポは速い。全神経を注ぐしかなく、その集中が短い休息になった。
―――
その夕方、会議を終えてアパートに戻ると、スマホが光った。――蓮だ。
一瞬迷ったが、通話ボタンを押した。
「ママ! どこにいるの! 早く帰ってきて、グリルドチーズ作って! あのクマのクッキーも! 田中さんの作ったのまずいし、寧々も作れない! ママが作って!」
私を恋しがっているわけじゃない。恋しいのは、私の作る料理だけ。
冷たい壁にもたれた。窓の外、S市の夕陽が空を橙金に染めているのに、温かさは一切入ってこない。
「蓮。ママは今、遠いところで仕事してる。食べたいなら田中さんに覚えてもらいなさい。寧々に買ってもらってもいい」
「イヤ! ママのがいい!」
声が甲高くなる。
「今すぐ帰ってきて! 寧々が言ってた! ママはわざと隠れてるって! ママはボクのこと好きじゃないって!」
――また、寧々が言った。
目を閉じる。開けたとき、胸に残っていたものは冷えた静けさだけだった。
「水原蓮、よく聞いて」
私の声は今までになくよそよそしかった。
「もう、ママは呼べばすぐ来るとは限らない。欲しいものがあるなら、今あなたの世話をしてる人に頼みなさい。私は仕事も生活もある」
向こうで短い沈黙。次いで、もっと甲高い泣き声と罵り。
「悪いママ! 悪いママ! いらない! 寧々のほうがずっといい! ママなんて何にもできない!」
氷の刃が受話口から突き刺さるようだった。
私はすぐには切らない。――録音ボタンを押した。
蓮が罵り疲れ、声が掠れ、すすり泣きと「寧々がいい」だけになった頃、私は静かに言った。
「言い終わった? じゃあ、さようなら。大事な用がないなら連絡しないで」
通話を切る。部屋が完全に静まり返った。
私は床に座ったまま、しばらく動けなかった。
LINEで和也のトークを開き、録音を送る。添えるのは一文だけ。
「水原さん、息子さんの教育にもっと目を向けてください。私にはもう無理ですし、介入するつもりもありません」
送信。
すぐに和也からボイスメッセージが来た。
いつもの詰問だと思った――だが違った。声には珍しく、焦りが混じっていた。
「蓮が大変なことになった! 今すぐ病院に来い」
胸が跳ねる。私は即座にかけ直した。
「どこだ」
怒りを噛み殺した声。
「小児病院に来い。蓮が階段から落ちて頭を切った!」
息が詰まる。
「どうして……重いの?」
「当たり前だろ」
露骨な皮肉。
「額が裂けた。入院して経過観察だ。医者は軽い脳震盪の可能性も否定できないと言った。全部、お前のせいだ」
「私のせい?」
荒唐無稽で笑いそうになる。
「和也。私はこの数日S市にいた。あなたの息子が転んだのが、どうして私のせいになるの」
「寧々が言った。お前の電話のあと、蓮はずっと泣いてた。ママが自分を捨てたって。寧々が目を離した隙に駆け下りて、踏み外した」
怒りが決壊する。
「里香、子どもの健康を使って報復するなんて、お前はそこまで落ちたのか?」
スマホを握る指先が冷たくなる。
「和也」
私は低く言った。
「あなたの中で私は、そこまで卑劣なの?」
短い沈黙。
「口論はしたくない。今すぐ来い。母親として、看病するのはお前の責任だ」
「分かった。行く」
電話を切り、最寄り便を調べる。二時間後の便がある。コートとバッグを掴み、私はアパートを飛び出した。
―――
長い移動の末、翌朝、小児病院に着いた。
廊下の灯りは冷たい白。静まり返っている。
病室の扉を押し開ける。――蓮がベッドで眠っていた。顔色は青白く、頭に包帯。寝顔なのに眉間がわずかに寄っている。寧々はベッド脇に座り、布団の外に出た蓮の手を握っていた。目は腫れている。
私を見ると、彼女は一瞬驚き、すぐ作り笑いを貼りつけた。
「里香、来てくれたのね」
窓際にいた和也が振り向く。
「来る気があったのか」
声は低く、冷たさは減らない。
私は彼を無視してベッドへ行き、蓮の顔を見た。
痛みが、不意に胸を満たす。――この子は、私の息子だ。額に触れようとして包帯が目に入り、手が宙で止まった。
「医者は?」
声が掠れた。
答えたのは寧々。涙目で、嗚咽混じりに。
「全部、私のせい。蓮をちゃんと見ていなかった。あなたの電話のあとずっと泣いて、『ママが僕を嫌いで捨てた』って……私がどれだけ慰めても止まらなくて。急に飛び出して『ママを探す』って……追いかけたときには、もう落ちてて……」
「軽い脳震盪。数日入院して経過観察だ。二次衝突は避けろ、だと」
和也が重く言う。
「聞いたか。満足か?」
私はゆっくり背筋を伸ばし、寧々を見た。
「寧々」
声は高くない。だが彼女の泣き声は止まった。
「蓮に、『私が嫌って捨てた』って言ったの?」
視線が一瞬揺れる。すぐに、より被害者めいた表情を作った。
「言ってない。私はただ、『ママは捨てたんじゃない、忙しいだけ』って……」
「私と蓮の通話は録音してる。和也はもう聞いてるはず」
私は和也へ視線を移す。
「私が蓮を罵った? 一言でも?」
和也はしばらく私を見つめ、表情が僅かに揺れた。それでも口は開かない。
「蓮が起きてからだ」
低く言った。
―――
昼近く、蓮がゆっくり目を覚ました。
私がベッド脇に座っているのを見るなり、顔を歪める。
「どいて! いらない! 悪いママ! 寧々がいい!」
私は動かず、無表情のまま和也を見る。
和也が低く言った。
「蓮。それが母親に言う口の利き方か」
蓮は少しだけおとなしくなったが、私への敵意は消えない。
「蓮」
和也は厳しい顔で問う。
「どうして怪我した。正直に言え」
蓮は反射的に、私の背後の寧々を見た。
寧々はすぐ前に出る。
「和也、蓮は起きたばかりよ。そんな怖い顔をしたら怯えちゃう」
蓮を宥めるように体を寄せる。
「大丈夫。パパは心配してるだけ。何でも言っていいのよ」
蓮は和也と私を見比べ、やがて可哀想な顔を作って泣きながら言った。
「ぼく……ママに気づいてほしかっただけ。ママが『大事な用がないなら連絡しないで』って言ったから。でも怪我したら、ママは絶対来てくれるって思って……パパ、ぼくを怒らないで……」
寧々が隣で痛ましげに撫でる。
私の中が、完全に冷えた。
五歳の子が、こんな筋書きを思いつく?
胸の奥に寒気が走る。――蓮、それ、寧々に教えられた言い方でしょう。
「里香」
和也の声が、怒りを押し込めきれずに震える。
「息子の安否まで利用するなんて、お前は母親失格だ」
私はゆっくり顔を上げ、彼を見た。
