第8話
里香の視点
「誰が恥知らずだって? 死にてえのか」
春の手が私の肩から離れる。彼が和也へ一歩踏み出した瞬間、その腕の筋肉が一気に張り詰め、危険なほどの圧を放つのが分かった。
「もう一度言ってみろ。俺の目の前でな。今日、お前がこの研究室から無事に歩いて出られるか試してやる」
「春!」
私は咄嗟に彼の腕を掴んだ。
「やめて、落ち着いて」
止めたのは、まだ和也を気にしているからではない。和也なんかのために、春の手を汚させたくなかったからだ。
和也は動かなかったが、その瞳に一瞬だけ迷いが走るのを見逃さなかった。彼はいつも「その場で一番偉い男」でいることに慣れている。けれど今、彼の前に立つ男の放つ圧倒的な気配は、和也をひどく……小さく見せた。
私は二人に反応する時間を与えず、春を背に庇い、隠しきれない嫌悪を込めて言い放った。
「私の兄よ。白石春」
和也の顔色が変わる。
五年前、私は反対を押し切って彼と結婚し、白石家と完全に決裂した。結婚式の日、白石家の人間は誰一人として来なかった。彼はきっと、私が一生実家と関わることはないと思っていたのだろう。
寧々も同じように凍りつき、口を半開きにしたまま言葉を失っていた。
これ以上相手をする気にもなれず、私は春へ向き直った。
「行こう。ここの空気、吐き気がする」
春は和也と寧々を冷たく一瞥したが、私には穏やかな声で応じた。
「いいだろう。お前の言う通りにする。ただ、その前に一言だけ言わせてくれ」
彼は一歩前へ出ると、和也を真っ直ぐに見据えた。
「水原さん。妹の研究室に、あなたの心配はいりません。助手を連れて押しかけて喚き散らすより、さっさと離婚協議書にサインしたらどうです? ――水原グループが恩知らずだと外で言われないためにもね」
言い終えると、彼は寧々へ意味深な視線を投げた。
その含みは、これ以上ないほど露骨だった。
「あなた――」
「寧々」
和也が低く遮る。
寧々は彼の目にある警告を察し、怯えたように口をつぐんだ。
春は彼女を鼻で笑い、私と並んで応接室を出た。二度と振り返ることはなかった。
―――
和也の視点
俺は立ち尽くし、応接室の扉がゆっくりと閉まるのを見つめていた。
春。
彼女が本当に兄に連絡を取っていたとは思いもしなかった。ましてや、俺が「完全に縁が切れた」と信じていたこの五年の間に――彼女が去ろうとしたとき、真っ先に頼ったのが春だったなんて。
「和也、これから……」
寧々が口を開く。焦ったような声だった。
「誰が勝手に行けと言った」
俺は振り向き、声を低く落とした。
「撤資の件は少し待てと言ったはずだ。誰の権限で、水原グループを代表して撤資通知を持ち込んだ」
彼女は俺の口調に怯え、たちまち目元を赤くした。
「私はただ、あなたの力になりたくて……」
「力になる?」
俺は彼女を睨みつける。
「台無しにしておいて、それが力になることか」
彼女は唇を噛み、ぽろぽろと涙をこぼした。
泣く姿を見ても、胸の苛立ちは消えるどころか増すばかりだった。理由は分からない。蓮の顔がまだ脳裏をちらついているからか、それとも里香の「あなたたち家族三人」という言葉がまだ消化しきれていないからか。
数秒の沈黙の後、俺は硬い声で告げた。
「もういい、泣くな。覚えておけ。今後、俺の指示なしに勝手に里香へ近づくな」
「……はい」
彼女は低く応じ、手で目尻を拭った。
その目を一瞬だけ見て、俺はすぐに視線を逸らした。今は、考えたくないことがある。
俺はもう彼女を見ず、テーブルに置かれたままの撤資通知を掴み、真っ直ぐに応接室を出た。
―――
里香の視点
春の車に乗り込み、シートに深くもたれて目を閉じる。
張り詰めていた神経がようやく少し緩み、疲労が波のように押し寄せてきた。
「大丈夫か」
春がエンジンをかけ、ルームミラー越しに私を見る。
「大丈夫。想定内よ」
彼は容赦なく評した。
「和也の奴、本当に見る目がないな。あんな秘書を五年も飼って、お前をいじめさせておくなんて。頭がおかしいんじゃないか」
私は何も返さなかった。ええ、私も五年耐えたのだ。
「でも、これでいい。きれいさっぱりだ。後で揉めずに済む」
彼は少し間を置いた。
「研究室のことは心配するな。俺が支えてやる。やりたいことを、思い切りやれ」
「……ありがとう」
「俺に礼を言うのか」
彼はミラー越しに私を睨んだ。
「父さんと母さんが家で待ってるぞ。お前が離婚するって聞いて、二人とも大喜びだ」
両親と聞いて、胸の奥に名状しがたい酸っぱさが込み上げた。この五年、ほとんど連絡を絶っていた。最後の電話も、喧嘩別れで終わっている。
車は静かな高級住宅街へ入り、独立した邸宅の前に止まった。春に続いて庭へ入る。玄関に着く前に、扉が内側から開いた。
エプロン姿の母、白石由利が玄関に立っていた。私を上から下まで眺め回し、ふんと鼻を鳴らす。
「帰ってくることは知ってたのね。玄関の場所すら忘れたかと思ったわ」
その後ろで、父の白石賢治が軽く咳払いをした。
「そんなに言うな。里香が帰ってきたんだ、それでいいじゃないか」
「私の言ってること、間違ってる?」
母は語気を強めた。
「男のために親を放りっぱなしにして、電話一本よこさない。お兄ちゃんが教えてくれなかったら、うちの娘が外でどれだけひどい目に遭ってたか、今でも知らなかったのよ!」
最後のほうで、彼女の目元が微かに赤くなった。私に見られるのが嫌だったのか、くるりと背を向けて奥へ歩き出す。少し声が詰まっていた。
「ほら、入って。玄関で突っ立ってどうするの」
私はその場に立ち尽くし、鼻の奥がつんとした。
「入れ」
父が手招きする。母よりずっと温和な声だった。
「帰ってきたなら、それでいい」
食卓には、昔私が好きだった料理が所狭しと並んでいた。母は私の茶碗に次々とおかずを取り分けながら、口も止めない。
「たくさん食べなさい。こんなに痩せこけて。だからあの人は駄目だって、ずっと言ってたのに、あなたが意地を張って……」
「母さん」
春が遮った。
「昔の話はもういい。里香だって分かってるさ」
「分かってる? 分かってたら五年もいじめられるもんですか」
母は私を見た。その目には、隠しきれない胸の痛みが溢れている。
「あんな男、さっさと別れなさい! うちの娘はこんなに出来がいいんだから、心から大事にしてくれる人なんていくらでもいるわよ」
父も頷いた。
「離婚は正しい。あの関係から抜け出すんだ。この家はいつでも、お前の帰る場所だ」
私は俯き、箸でご飯をつついた。堪えきれなくなった涙が、ぽとり、ぽとりと茶碗に落ちる。
「泣くんじゃないの」
母がティッシュを私の手に押しつけ、自分も目尻を拭った。
「あんな男のために泣く価値なんてないわ」
「……うん」
私は嗚咽交じりに頷いた。
空気が少しずつ和らいでいく。母は私を見て、それから隣の春を見て、ふいに話題を変えた。
「で、あなたよ。兄として何してるの。前に妹の相手、何人か見繕うって言ったでしょ? あれからどれだけ経ってると思ってるの。全然話がないじゃない」
春がスープでむせそうになり、呆れたようにスプーンを置いた。
「母さん、里香はまだ離婚の手続きも終わってないんだぞ。このタイミングで見合いって、どう考えてもおかしいだろ」
「あなたがのんびり探してたら、いつになるか分からないじゃない!」
母は意に介さない。
「あなた、仕事の付き合いで若くて格好いい人、いくらでもいるでしょう。手続きが終わった瞬間にセッティングするのよ! うちの娘、こんなに素晴らしいのに、無駄な時間を過ごさせるわけにはいかないわ」
私は少し照れくさくなった。
「お母さん、私は急いでないから……」
「あなたが急がなくても私が急ぐの」
母が私を睨む。
「今度は絶対に、あなたを大事にして、尊重してくれる人を探すのよ。家柄なんてどうでもいい。人柄が一番なんだから」
春は両手を上げて降参した。
「はいはい、ちゃんと見ておく。それでいいだろ?」
「それならいいわ」
母は満足げに頷き、私の皿にステーキを一切れ乗せた。
「たくさん食べて、身体を戻しなさい。これからは家に住むのよ。いつまででも、好きなだけいなさい」
春は黙り込んだ。
彼の諦めきった顔を見て、そして両親の瞳に宿る隠しきれない気遣いを見て。胸の奥にずっと張りついていた冷えが、この温もりの中で、少しずつ、静かに溶けていくのを感じた。
「うん」
私は素直に返事をし、顔には久方ぶりの、心からの笑みがこぼれていた。
