第9話

和也の視点

水原グループ最上階、CEO室。

俺は全面ガラスの窓際に立ち、眼下で喧騒に包まれる街を見下ろしていた。

ガラスに映る眉間の皺。あの研究室での一件から、もう数日が過ぎていた。

里香からの連絡はない。離婚協議書は引き出しの奥に眠ったままだ。

俺は自分が間違っているとは思っていない。投資は彼女が望んだことだし、撤資は彼女が実家と揉め続け、会社の体面に影響を及ぼしたからだ。だが今、言いようのない不安が胸をよぎる。彼女は本当に、俺の支配から抜け出す力を手に入れたように見えた。

俺はデスクへ戻り、内線を押した。

「由美子、入れ」

森田由美子がドアを開けて入ってくる。俺は命じた。

「前の四半期のオークションで落としたスターライトシリーズのジュエリー、持ってこい」

彼女は少し驚いたようだったが、理由は訊かない。数分後、濃紺のベルベット箱がデスクに置かれた。

運転手に車を用意させ、俺は里香の研究室へ向かった。

ジュエリーを贈るのは、俺のやり方だ。価値が明確で、余計な説明がいらない。気に入るかどうか――彼女は今まで受け取ってきた。そう思っていた。

――

里香の視点

受付から内線が来たとき、私はパラメータの調整中だった。

手袋を外し、ロビーへ向かう。

廊下の先に和也がいた。濃紺のベルベット箱を手に、何とも言えない表情を浮かべている。彼を見た瞬間、苛立ちが目の奥を掠めたが、すぐに抑え込んだ。

「何?」

入口で立ち止まり、中へ招き入れる素振りは見せない。

和也は不快感を押し殺し、箱をこちらへ差し出した。

「話がある。撤資の件は……誤解があった」

「誤解?」

私は片眉を上げる。

「撤資通知、水原グループ法務の正式書類、寧々本人の訪問。どこに誤解があるの? お金は返した。清算済みよ。他に用は?」

「里香」

彼は辛抱強く言う。

「そんなに突っかからないでくれ。手続きに行き違いがあったのは確かだ。俺が細部を完全に把握していなかった。寧々の処理が不適切だった。そこは認める」

彼にとって、これが限界に近い「謝罪」なのだろう。

私は静かに彼を見た。感情の揺れは何もない。

「それで? わざわざ足を運んで言うことがそれだけ?」

彼は言葉に詰まり、箱を私へ押し寄せる。

「……これは、お前に。過ぎたことは過ぎたことにしよう。蓮もいる。ここまで関係を拗らせる必要はない」

私はその上品なベルベット箱に視線を落としたまま、手を出さない。

滑稽にすら思えた。これが効くと本気で思っているのか。

私は小さく笑って首を振る。

「低姿勢と高い物で、全部帳消しにできると思ってる? 私が感激して、元通りになるって?」

「そういう意味じゃ――」

「じゃあ、どういう意味?」

言葉を遮る。

「あなたの世界では、何でもお金と物で測れるの? 妻の尊厳も、仕事も?」

彼の顔が曇る。

「いい加減にしろ。俺が自分で来た。それが尊重だ」

「尊重?」

反射的に半歩下がった。奇妙な感覚が胸をよぎる。――私はどうして、こんな男を愛したのだろう。

そのとき、彼のポケットのスマホが震えた。苛立って取り出し、画面を見てすぐに出る。

『和也、大変!』

寧々の泣き混じりの甲高い声が漏れ聞こえ、背後には蓮の絶叫が重なっている。

『蓮が急にお腹を痛がって床で転げ回って、何回も吐いたの! お医者さんを呼んだけど、ずっとパパって……早く帰ってきて、蓮があなたを呼んでる!』

『パパ、パパ、お腹痛い、パパ……!』

蓮の泣き声がはっきりと聞こえた。

和也の顔色が変わり、声が上がる。

「どういうことだ。医者は何て言ってる?」

『急性胃腸炎かもって……こんなに小さいのに、怖くて……和也、早く帰ってきて。蓮がずっとあなたを……』

私は通話の全部を聞いていた。顔には何の表情も浮かべず、ただ冷ややかに彼を見つめる。

次の瞬間、彼は決断を下した。

「すぐ戻る!」

通話を切り、私へ向き直る。

「蓮が急に具合が悪くなった。重いかもしれない。今すぐ行く。プレゼントは受け取っておけ。今日はまた改めて」

彼は箱を私の手に押しつけ、私の反応も待たずに大股で去っていった。

その場に立ち尽くし、背中が消えるのを見送る。口元の皮肉がどんどん濃くなっていった。

――

私は箱を抱えたまま、きびすを返して研究室へ戻った。

数人の研究員が作業に没頭していたが、足音に気づいて次々と顔を上げる。

室内を一瞥し、インターンの佐藤綾子に目を留めた。データを記録するため前かがみになっており、手首には色褪せた赤いミサンガが揺れている。

「綾子」

彼女は顔を上げ、戸惑ったように瞬きした。

「白石さん?」

私は歩み寄り、彼女の作業台にその濃紺のベルベット箱を置いた。

「あなたに。少し古臭いデザインかもしれないけど、嫌なら売ってもいいし誰かにあげてもいいわ」

平坦な声で、どうでもいいことのように言う。

「プロジェクト第一段階の収束祝いよ」

それ以上、箱を見ないまま、私は自分のオフィスへ入って扉を閉めた。

廊下の向こうで、綾子が堪えきれずに短く叫ぶのが聞こえる。次いで悠の咳払い。

「白石さんからだ。受け取っとけ。ちゃんと働けよ」

「……は、はい!」

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