第1章
愛美視点
「愛美、おめでとう。妊娠しているわ」
エコー写真に映る小さな影を見つめながら、私は思わず口元を覆った。
「綾子、信じられない……私、本当に妊娠したのね」
夫である高木文弘はパックのアルファであり、私はそのルナだ。だというのに、私は内なる狼を持たない出来損ないの人狼だった。
結婚して一年、子宝に恵まれないことにずっと引け目を感じていた。
文弘をこれ以上落胆させるのが怖くて、彼には内緒で、友人である平野綾子がいる病院へ検査を受けに来たのだ。
「当然よ、愛美。これはあなたの努力の賜物だわ」
綾子は私をそっと抱きしめた。
「あなたが子供を授かるために、どれだけ身を削ってきたか、みんな知っているもの」
私は力いっぱい涙を拭い、エコー写真を大切に折りたたんでポケットにしまった。
「今夜、文弘にこの吉報を伝えるわ。きっと喜んでくれるはずよ」
病院を後にし、夫と暮らす家へと帰った。
彼の大好物である黒胡椒のステーキに上品な付け合わせをいくつか用意し、長年大切に保管していたロマネ・コンティの栓を抜いた。
しかし、料理がすっかり冷めきっても、文弘が帰ってくる気配はなかった。
ダイニングテーブルに取り残された私のスマホに、ふいに匿名のメッセージと一枚の写真が届いた。
写真に写っていたのは、他でもない私の夫。彼は甘い眼差しを浮かべながら、バースデーケーキを切り分けていた。
――私と一緒に誕生日を祝ってくれたことなど、一度もないのに。
画面にメッセージの文面が浮かび上がる。
【高木愛美、あなたの夫は今、私と一緒に誕生日を過ごしているわ】
【彼から腕時計をプレゼントされたの。五百万ドルもする最高級品よ】
【ねえ、私が誰か知りたい? ふふ、すぐに分かるはずよ】
全身の血が一瞬にして凍りついた。
文弘と結婚してからというもの、この女は頻繁にこうした挑発的なメッセージを送りつけてきた。
文弘は私を愛していない。私達の結婚は、彼の祖父が取り決めた政略結婚に過ぎなかった。
初夜のベッドでさえ、彼は私を抱くことなく、この女と酒を飲みに出かけてしまった。
公の場で私をルナとして認めたことは一度もなく、パックの民衆は彼が未だ独身であるとさえ思っている。
私の誕生日、彼が祝ってくれると胸を弾ませていたのに、一本の電話で足早に立ち去ってしまった。
直後、この女からバーで踊る二人の写真が送られてきたのだ。
薄暗いダンスフロアで、彼らはひどく生々しく身体を密着させていた。
それでも、私は文弘に『この女は誰なのか』と問い詰めることができなかった。……絶望的な劣等感と、臆病な心、そして見捨てられることへの恐怖から。
彼はことあるごとに、内なる狼を持たない私を「役立たず」と蔑み、自分には相応しくないと言い放っていた。
私は薄氷を踏むような思いでこの結婚生活を保ち、彼に捨てられることだけを何より恐れていたのだ。
でも、今は違う。私のお腹には新しい命が宿っている。
私はスマホを固く握りしめたまま、夜の十時過ぎまでダイニングテーブルの前に座り続けた。
ガチャリと玄関のドアが開き、文弘が姿を現した。
私は条件反射のように愛想笑いを作り、立ち上がった。
「文弘、聞いて。すっごくいい知らせが――」
その瞬間、ツンと鼻を突く強烈なアルコールの匂いが押し寄せてきた。
文弘はひどく酔払っていた。おまけに、その身体からは甘ったるい香水の匂いが漂っている。
――女の香水だ。
喉元まで出かかった言葉が詰まる。問い詰める間もなく、彼は私を乱暴に抱き上げ、寝室へと向かった。
私は無意識にお腹を庇ったが、彼は容赦なく私の上に重くのしかかってきた。
「文弘、やめて……」
だが、彼はまるで理性を失った獣のように、私の首筋に荒々しく噛みついてきた。
結婚して一年、文弘はずっと私に冷淡だったが、セックスの時だけは異常なほどの執着を見せた。
私は必死で彼の胸を押し返そうとした。
「文弘、ダメよ。今日はそういうこと、できないから……」
しかし、私の抵抗など彼の前では無に等しかった。
あっという間に、彼の太い指が私のきつく締まった奥へと侵入してくる。
「動くな。大人しくしろ、愛美」
文弘の冷酷で威圧的な声が響く。
彼はアルファだ。彼が下した絶対的な命令に、私が逆らうことなど到底不可能だった。
指が奥を抉るストロークは次第に激しさを増し、私は堪えきれずに双眸を潤ませながら脚を開いてしまう。
荒い息を吐き出すたび、露わになった胸の膨らみが激しく上下に揺れた。
彼は片方の柔らかな肉を力強く鷲掴みにし、もう片方の先端を甘噛みする。
痺れるような快感と微かな痛みが、一瞬にして全身を駆け巡った。
私の身体は、いやでも彼に反応させられていく。
私の従順さに気を良くしたのか、文弘は満足げな低い唸り声を漏らし、さらに焦燥に駆られたように動きを荒らげた。
私の片脚を高く持ち上げて自身の肩に担ぐと、すでに熱く反り返った巨大な楔を、濡れた入り口へとあてがう。
「あっ!!」
圧倒的な快楽が脳髄を焼き尽くし、自分がどれほど淫らな姿を晒しているかなど気にする余裕もなかった。ただ、果てしない悦びだけが私を支配していた。
すべての嵐が過ぎ去った後、私は文弘の逞しい腕の中で幸福感に浸っていた。
十数分もすると、彼の酔いはすっかり醒めたようで、その呼吸は静かで力強いものへと変わっていた。
私は枕の下からエコー写真を取り出し、妊娠したという最高の知らせを彼に伝えようとした。
――けれど、文弘の顔には再びあの氷のような冷酷さが戻っていた。
彼の口から紡がれた言葉が、私の中で膨らんでいた幸せな幻想をあっけなく打ち砕いた。
「愛美。俺達、離婚しよう」
脳内で耳鳴りが響き、声が震えを帯びる。
「文弘、あなた……今、なんて言ったの?」
「どうして離婚なんて……嘘よね? 酔っているのよ、あなた……」
「愛美、俺は今、完全にシラフだ」
文弘は私のすがるような言葉を無残に切り捨てた。
「南川茜のことだ。彼女は銀毒症に侵されていてな、医者からは余命一年だと宣告された」
彼は煙草に火を点け、紫煙を吐き出しながら目を細める。
「死ぬ前に俺と結婚し、俺のルナになること。それが彼女のたった一つの願いなんだ」
南川茜……。
その名前は、鋭い銀の短剣のように私の心臓を深くえぐった。
ずっと私にメッセージを送りつけてきた女の正体が、今ようやく分かった。
彼女は新月パックのプリンセスであり――私の夫の浮気相手だ。
私が呆然としているのに気づき、文弘は不快そうに眉根を寄せた。
「愛美、俺の話を聞いているのか」
顔を上げ、必死にすがりつく。
「文弘、どうしても離婚しなきゃいけないの? 彼女が病気なら、パックで一番腕のいい医者を呼んで治療してあげれば……」
「愛美! 彼女には俺が必要なんだ!」
文弘は苛立たしげに私の言葉を遮った。
「いいか? お前さえいなければ、彼女はとっくに俺のルナになっていたはずだったんだ」
「茜は心優しく、誰よりも俺を愛してくれている。お前を傷つけたくないと言って、この一年、俺達は一度も一線を越えなかった」
「俺が償いをしようとしても、彼女はずっと拒み続けてきたんだ」
「愛美、これ以上お前を薄情で醜い女だと思わせないでくれ!」
彼の瞳に浮かぶ明らかな嫌悪感が、私の心をズタズタに引き裂いた。
――そうか。彼の目には、既婚の男にまとわりつく女が「心優しい」と映るらしい。
そして、自分の夫を誰にも譲りたくない私は「醜悪」なのだ。
「でも……」
私はうつむき、自分のお腹をそっと撫でた。
「愛美、妊娠すらできないお前が、どうして俺のルナに相応しいと言える?」
彼の態度はどこまでも冷酷だった。
大粒の涙が頬を伝い落ちる。
「もし……私が妊娠していたら?」
震える声で尋ねた。
彼は一瞬きょとんとした後、鼻で笑った。
「愛美、冗談も休み休み言え。内なる狼すら持たないお前が、俺の子を身籠るわけがないだろう!」
私は深く息を吸い込み、エコー写真を取り出そうとした。
だが次の瞬間、彼は何かに思い当たったように、ひどく凶悪な表情を浮かべた。
「万が一本当に妊娠していたとしても――その子は堕ろせ。そして俺達は離婚する! 茜を悲しませたくない。彼女には、俺が必要なんだ」
