第2章
高木愛美視点
高木文弘の言葉は、重いハンマーとなって私の頭を容赦なく打ち砕いた。
驚愕に見開かれた目で彼を見つめる。喉の奥から、鉄錆のような血の匂いがせり上がってくるのを感じながら、私は叫んだ。
「どうして、私達の子供にそんなひどいことができるの?!」
高木文弘は、南川茜を悲しませないというただそれだけの理由で、私がようやく授かったこの命を堕とせと言うのだ。
私の苦痛に満ちた表情を見て、高木文弘は深く眉間に皺を寄せた。ほんの一瞬だけ心が揺らいだかのように見えたが――次の瞬間には、冷酷な嘲笑を漏らしていた。
「お前が俺の子供を身籠るはずがないと、分かっているからだ」
「妊娠したと言うなら、その証拠でもあるのか?」
胸の中で心臓が狂ったように早鐘を打つ。私の手はすでに、枕の下に隠したエコー写真に触れていた。だが、そこで急に勇気が萎縮してしまった。
怖い。もし本当に、彼から無理やり子供を堕とすよう迫られたらと思うと、恐ろしくてたまらなかった。
高木文弘は私のことなど微塵も愛していない。そんな彼が、この子を望むはずがあるだろうか。
それどころか、彼を縛り付けるための道具だと冷たく切り捨てられるかもしれない。
私はそっと手を引っ込めた。
ほんのわずかな動作だったが、高木文弘の鋭い眼光はそれを逃さなかった。
「高木愛美?」
彼は目を細め、危険な響きを帯びた声で問う。
「今、何を出そうとした?」
私は慌てて手を背後に回し、震える声で答えた。
「な、何でもない……」
高木文弘は鼻で笑う。その口元には、あからさまな皮肉が浮かんでいた。
「高木愛美、俺を引き留めるためなら、妊娠なんていう馬鹿げた嘘まで吐くのか」
その瞳には軽蔑の色が満ちている。
「お前は本当に、偽りだらけの女だな!」
「嘘じゃない!」
私はほとんど叫ぶように返し、堪えきれなくなった涙が頬を伝い落ちた。
「高木文弘、南川茜はあなたが思っているような人じゃない! あの女は……」
震える手でナイトテーブルからスマホを取り上げ、画面を素早くスクロールさせる。
「これを見て!」
彼の目の前にスマホを突き出す。そこにあるのは、この一年間、南川茜が私に送りつけてきたメッセージの数々だ。
高木文弘はスマホを受け取り、みるみるうちに顔を険しくしていった。
次々と表示される写真、そして挑発的な言葉の羅列が、はっきりと彼の目の前に突きつけられる。
「高木文弘、見たでしょ? これ全部、南川茜が私に送ってきたのよ。彼女はあなたが思っているような、優しい女なんかじゃない!」
私は掠れた声で哀願する。
「彼女、ずっと私に嫌がらせをして、挑発してきて……」
「いい加減にしろ!」
高木文弘は勢いよくスマホをベッドに叩きつけた。その目には激しい怒りが燃え盛っている。
「高木愛美、この写真には南川茜の顔すら写っていないじゃないか! こんなものをあいつが送ったと、俺が信じるとでも思ったのか?」
彼は立ち上がり、見下ろすように私を睨みつけた。
「結婚して一年、お前はずっと俺を尾行させていたというわけだ」
「わざわざこんなメッセージや写真をでっち上げてまで南川茜を陥れようとするとは。高木愛美、お前は本当に底意地の悪い女だな!」
私は首を横に振る。途方もない無力感が、全身を飲み込んでいく。
「違うわ……」
高木文弘は深く息を吸い込み、少しだけ語気を和らげた。
「高木愛美、無駄な足掻きはやめて離婚に同意しろ。欲しいものがあるなら、何でも補償してやる」
彼は一拍置き、瞳にわずかな軽蔑を滲ませた。
「どうせ俺と結婚したのも、金が目当てだったんだろ?」
「車でも、家でも、何が欲しい? 何でもくれてやる」
その言葉は平手打ちのように、私の頬を容赦なく張り飛ばした。
彼の目に映る私は、そんな卑しい女だったというのか……。
その時、唐突に部屋のドアが押し開かれた。
高木文弘の補佐役である、野口裕史だった。
彼は切羽詰まった様子で声を張り上げた。
「アルファ、南川さんの容態が急変しました。かなり危険な状態で、ずっとアルファのお名前を呼んでおられます。早く行ってあげてください!」
高木文弘の表情が瞬時に変わった。先程までの苛立ちは完全に消え去り、焦燥と深い懸念に染め上げられる。
結婚して一年が経つというのに、彼が私をこれほど必死に心配してくれたことなど、一度たりともなかった。
彼はすぐさま上着を羽織り始める。
「ダメ!」
私は後先考えずに彼に飛びつき、その腕にすがりついた。
「高木文弘、行かないで! あなたは私の夫なのに、どうして他の女のところへ行くの?」
「離せ!」
高木文弘は低く唸り、私の指を乱暴に引き剥がした。
私はなけなしの力を振り絞り、必死に彼に抱きついた。
彼の声には行き場のない怒りが満ちていた。
「高木愛美、分かってるのか? 南川茜は俺のせいで銀毒症になったんだ! 俺は行かなきゃならない、あいつには俺が必要なんだよ!」
私は首を横に振り続ける。涙がとめどなく溢れ出た。
「高木文弘、こんなのひどい……私は、あなたの妻なのに……」
「妻だと?」
高木文弘は冷笑し、嘲りの目を向ける。
「子供すら身籠れないお前が、俺のルナにふさわしいとでも?」
「高木愛美、忘れるな。俺達の結婚はずっと非公表のままだ。俺にはいつでもお前のルナの称号を剥奪する権利があるし、長老会の連中だって誰も反対しないさ」
彼の怒鳴り声に、私はビクリと身体を震わせた。
恐怖に目を見開き、ふと自分自身がたまらなく惨めで、滑稽に思えてきた。
結婚して一年、私は必死に彼に尽くしてきた。まるでメイドのように彼を世話し、ベッドの上では一切の尊厳すら捨てて彼の暴虐に耐え忍んだ。
それもこれもすべて、彼の子供を宿し、ルナとしての身分を認めてもらうためだった。
それなのに、彼は?
彼はこれまで一度たりとも、公の場で私をルナとして認めたことはなかった。
今、高木文弘のおじいちゃんが亡くなったばかりだというのに、彼はこうして待ちきれないとばかりに私と離婚し、新たなルナを迎え入れようとしているのだ。
高木文弘は思い切り私を突き飛ばした。
私はバランスを崩し、ベッドの角に身体を激しく打ちつけた。
「あっ!」
下腹部から走る激痛に、私は身体を丸め、押し殺したような呻き声を上げた。
高木文弘はピタリと動きを止め、冷ややかな視線を私へ向ける。
「高木愛美、芝居はやめろ。どうせ何ともないんだろ!」
そして、彼は一度も振り返ることなく部屋を出て行った。
バタン!
ドアが乱暴に閉められ、部屋には私一人だけが取り残された。
冷たい絨毯の上でうずくまり、額からとめどなく流れる冷や汗が髪を濡らしていく。
次第に、私の意識は遠のいていった。
どれくらいの時間が経ったのか。唐突にスマホが震動し、私はハッと意識を引き戻された。
画面に表示されていたのは、見覚えのないあの番号。
また、南川茜だ!
写真の中の南川茜は、肌をほとんど隠せていない黒いレースのネグリジェを身に纏っていた。
彼女は高木文弘にぴったりと寄り添い、片手を彼の剥き出しの胸板にすべらせ、もう片方の手でスマホを構えて自撮りをしている。
その顔には勝利者の笑みが浮かび、得意げで、ひどく挑発的だった。
その姿のどこが、重病で死にかけの人間だというのだろう。
そして私の夫である高木文弘は、上半身裸のまま彼女の隣で眠っている。
続いて、彼女からのメッセージが届いた。
『私が勝者よ、高木愛美。狼すら宿していないただのクズ女!』
『あなたの負けよ!』
この言葉が頭の中で幾度も反響し、私の理性をぐちゃぐちゃに掻き乱していく。
突然喉が塞がれたように息苦しくなり、心臓を強く鷲掴みにされたような痛みに、気を失いそうになった。
下腹部から、先程よりもさらに鋭い激痛が走った!
「うっ!」
私は苦痛に呻き声を漏らし、コントロールが効かないまま身体をさらに小さく丸めた。まるで急所を踏みつけられたミミズのように。
生温かい液体が、両脚の間から勢いよく溢れ出す。
私は身体を強張らせながら、ゆっくりと視線を落とした。
白いネグリジェに、目に刺さるような鮮やかな赤が、みるみるうちに広がっていく。
私の血だ。
「嫌……やめて……」
震える手を伸ばし、自らの下腹部に触れる。そこには、私と高木文弘の子供が宿っているのに。
「助けて……誰か……」
