第5章

 平野綾子は長い沈黙のあと、ひどく複雑な眼差しで私を見つめた。

「もう、決めたの?」

「ええ」私ははっきりと頷いた。

「分かったわ。高木愛美、あなたがどんな決断を下そうと、私は応援するから」

「離婚すれば、高木文弘から多額の財産を分けてもらえるはずよ。そうすれば、女手一つでも十分に子育てしていけるわ」

 綾子は真剣な表情を崩さない。

「あなたはもっと幸せになるべきよ、愛美」

 私の目から、再び涙がこぼれ落ちた。

「綾子、もう一つだけお願いがあるの」

「私が妊娠していること、誰にも……特に文弘には絶対に言わないで」

「誓うわ」綾子はためらうことなく頷いてくれた。「これはあなたの秘密であり、私の秘密でもあるから」

 私はようやく安堵の息を吐き、強張っていた身体の力を少しだけ抜くことができた。

 泣き疲れたせいか、夜更けには深い眠りに落ちていた。

 再び目を覚ました時、外はすっかり明るくなっていた。

 今日、綾子は病院の勤務が休みだ。

 私が目を覚ましたのに気づくと、彼女は優しく声をかけてきた。

「お腹、まだ痛む?」

 私はゆっくりと首を横に振る。

「よかった。もう少し横になってて。何か食べるものを作ってくるから。お腹に赤ちゃんがいるんだから、ちゃんと食べなきゃダメよ」

 ベッドに寝転がったまま、平らな下腹部にそっと手を当てる。

 この小さな命が、今の私にとって生きるための唯一の希望だった。

 綾子がキッチンから目玉焼きとベーコンを運んできた。私は身体を起こし、ダイニングテーブルへと向かう。

 レストランの壁掛けテレビでは、朝のニュース番組が流れていた。

 画面が切り替わり、あるパーティーの生中継が映し出される。

 画面のテロップが、ひどく目に焼き付いた。

『ゴールデンムーン・パックのアルファ、パートナーを連れて公の場に登場』

 カメラの中心には、南川茜をエスコートする高木文弘の姿があった。

 私の手からナイフとフォークが滑り落ち、皿に当たって甲高い音を立てた。

「見ちゃダメ、愛美。すぐ消すから」

 私の動揺に気づいた綾子が、慌ててリモコンに手を伸ばす。

 しかし、私はその手をそっと押さえた。

「平気よ。遅かれ早かれ、向き合わなきゃいけないことだもの」

 画面の中で、茜は愛情たっぷりの眼差しで文弘を見上げ、背伸びをして彼の耳元で何かを囁いていた。

 すると、文弘が微笑んだ。

 その顔には、私が今まで一度も見たことのない、甘く優しい笑みが浮かんでいた。

 茜の腰を抱く彼の手は、隠すことのない独占欲と慈愛に満ちている。

 そうか……彼は生まれつき冷酷なわけじゃなかった。ただ、私に対してだけ笑わなかったのだ。

 記者たちが群がり、茜にマイクを突きつける。

「南川さん、高木文弘さんとはどのようなご関係なのでしょうか?」

「二つのパック間で、結婚のお話が進んでいるのでしょうか?」

 茜は恥じらうように微笑み、フルフルと首を横に振った。

「私はただ、彼のパートナーというだけです」

 その声は控えめで愛らしかったが、瞳の奥には一瞬、確かな優越感がきらめいた。

 文弘は少し不機嫌そうに眉をひそめている。記者たちに追及されるのが不快なのだろう。

 彼の機嫌を察した茜が、慌てて付け加える。

「実は、文弘さんはすでに結婚されているんです」

 そう言った途端、彼女の目元が赤く染まった。

「文弘さんのことは愛していますが、第三者にはなりたくありません」

 声を詰まらせる彼女の姿は、ひどく可哀想で無実な犠牲者のように見える。

「私は銀毒症を患っていて、お医者様からはもう長くは生きられないと言われています。残された最後の時間を、せめて友人の一人として彼のそばで過ごせたら……それだけで十分なんです」

 涙が彼女の頬を伝い落ちる。

 会場にいた出席者たちからは同情の溜息が漏れ、中には鼻をすする者までいた。

 記者たちはさらに勢いづく。

「南川さん、ご病気はそれほど深刻なのですか?」

「高木文弘さんはそのことをご存知で?」

「奥様に対して、何かおっしゃりたいことはありますか?」

 茜の顔色がいっそう青ざめると、文弘がスッと前に出て、彼女を背後にかばった。

 その声は冷たく、圧倒的な威圧感を放っていた。

「取材はここまでだ!」

 彼は振り返って茜を支え、痛ましく自責の念に駆られたような瞳で彼女を見つめる。

「休ませてやる。行こう」

 カメラが捉えたのは、茜を大切に守りながら歩き去る彼の背中だった。それはあまりにも優しく、思いやりに溢れていた。

「何よあの女! 他人の旦那を奪うただのクズじゃない!」

 綾子は顔を真っ赤にして怒り狂っている。

「愛美、あなたはあんな女よりずっと素敵なのよ。落ち込んだり、自分を卑下したりする必要なんてないわ」

 私は無言のままスマホの画面を開いた。

 通知が山のように溜まっており、そのすべてが先ほどのパーティーに関するニュースだった。

 一番注目を集めている記事をタップする。

 茜が銀毒症を患っているというニュースは、世間の同情を一身に集めていた。

 コメント欄は彼女の回復を祈る声で溢れ返っている。

『南川さん、優しすぎる。文弘さんのことが好きなのに、家庭を壊さないようにしてるなんて』

『病気に打ち勝って、早く文弘さんと結ばれてほしい!』

『文弘さんがあんなに優しくしてるんだから、絶対に真実の愛だよ』

 スクロールしていくと、ふと別の見出しが目に飛び込んできた。

『衝撃! アルファの高木文弘は既婚者だった!』

 指先が凍りつく。コメント欄は完全に炎上していた。

『えっ? 高木文弘って結婚してたの? 独身だと思ってた!』

『奥さんって誰? なんで今まで隠してたの?』

 そこに、ある人物からのリークが書き込まれた。

『聞いた話だけど、高木文弘のルナって、狼を持たない女らしいよ!』

 その一言が、すべての人々の関心をさらった。

『狼を持たない? そんな奴がルナになれるわけないだろ! パックへの冒涜だ!』

『今まで存在を隠してたのも納得。ただの出来損ないじゃん!』

『さっさと離婚しろ! 文弘さんに相応しいのは南川茜だけだ!』

『そうよ! 南川茜をゴールデンムーンのルナにするべき! 彼女は優しくて美人だし、狼を持たないゴミ女なんかより百倍マシよ!』

 世間はこぞって私と文弘の離婚を望み、茜がパックのルナになることを熱望し始めていた。

 私の顔から、さっと血の気が引いていく。

 スマホが手から滑り落ち、床にぶつかって鈍い音を立てた。

「愛美!」

 綾子が慌てて私を抱きしめる。

 ぼんやりとした頭の中に、ふと高木のおじいちゃんの優しい笑顔が浮かんだ。

 文弘と結婚したあの日、おじいちゃんは私の手をしっかりと握り、真剣な顔で言ってくれた。

『愛美、ワシの目に狂いはない。お前と文弘は、まさに天生の一対じゃ』

 ごめんなさい、おじいちゃん。私は結局、あなたの期待を裏切ることになりそうです。

 着信音が、不意に私の思考を断ち切った。

 養母の久保理沙からだった。

 電話に出た瞬間、彼女の甲高く冷酷な声が鼓膜を突き刺す。

「愛美! テレビ見たわよ! 南川茜と文弘はどういうことなの!」

「文弘の妻はあなたでしょう! どうして別の女をパーティーに連れて行かせたのよ!」

「世間はその話題で持ちきりよ! 私がどれだけ恥をかいたか分かる!」

 胸が締め付けられ、手のひらにじっとりと嫌な汗をかく。

「お母さん、聞いて。最近少し体調が優れなくて、私が一緒に出席できなかったから……彼が急遽パートナーを頼んだだけで……」

 理沙の声はさらに鋭くなり、失望と非難の念が色濃く滲む。

「自分の夫を他の女に取られるなんて、本当に情けない子ね!」

 そして、彼女は急に話題を変えた。

「それに、結婚してもう一年も経つのに、どうしていまだに妊娠しないの! あなたの身体はただの飾りなの!」

「私だって、頑張ってるわ」

 スマホを握る手にぐっと力が入る。

 しかし、理沙は有無を言わさず命令を下した。

「明日、病院に連れて行くからね! あなたの身体のどこに欠陥があるのか、徹底的に調べてもらうわよ!」

 ダメだ。絶対に病院になんて行けない。

 妊娠していることを知られたら、彼女は間違いなく文弘に報告してしまう。

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