第1章

レイクベイの別荘は、朝の静けさに包まれていた。

例外は主寝室だけ。えずく音と、水の流れる音が途切れなく響いている。

橋野悠希の胃は、丸ごとレモンを押し込まれたみたいに酸っぱさがこみ上げ、吐きたいのに吐けない。洗面台に手をつき、鏡に映る少しみすぼらしい自分を見つめると、眉間が自然と寄った。

最近やたら眠い。全身がだるい。そこへ、この空えずき……。

――嫌な予感が、背筋を氷で撫でたみたいに走った。

彼女は即座に手首へ指を当て、脈を取る。次の瞬間、顔色がさっと青ざめた。

……妊娠してる。

そう理解した途端、ひと月前の出来事が脳裏に蘇った。

祖父の命日。悠希は山へ登り、墓を掃除した。山頂で一人、かなり酒をあおり、下山した頃には深夜も深夜。レイクベイへ戻る前に、祖父の古い家で少し休もうと思った――のに、門をくぐった瞬間、庭の中に気配があった。

彼女は壁際に立てかけてあった箒をそっと掴み、腰を落として窓から忍び込む。着地した拍子に何かを踏み――そのまま尻もちをついた。

尻の下に伝わる熱と、男の息を呑む音。

おかしい、と理解するより早く、立ち上がろうとした腰を男が強い力で引き寄せた。

「……すまない。助けてくれ。責任は取る」

極限まで耐えた表情は、檻に閉じ込められた獣そのものだった。闇の中で、その気配だけが人を震えさせる。

長川貞也は額に青筋を浮かせ、理性も意識も引き剥がされていくのを感じていた。腕の中の柔らかさと、澄んだ花の香り――それだけが、彼を狂わせる。

悠希の薄い服が、一瞬で引き裂かれた。

抵抗する暇もなく、容赦なく奪われる。

男の動きは粗暴で、狂気じみていて、まるで彼女を丸ごと喰い尽くすかのようだった。

「……このクソ野郎、殺してやる」

泣き枯れた声も、呼吸も、男に塞がれる。

淡い月明かりの下で、男の輪郭のはっきりした顔立ちはぼやけて見えない。

わかるのは二つだけ――醜くない。老けてもいない。

それが、初めての夜に与えられた唯一の慰めだった。

「若奥さま、どうなさったんですか」

佐藤が朝食に呼びに来て、部屋へ入った途端、悠希の様子に気づいた。すぐに小走りでぬるま湯を持ってくる。

「お水です。うがいしてくださいね」

ひと月前の記憶が胃の奥をかき回す。悠希は無理に口角を上げたが、胸の内は苦く、滑稽で仕方なかった。

名ばかりの夫婦を三年続けて、夫の顔も知らない。

なのに別の男に身体を奪われ、子まで宿している?

「大丈夫。たぶん昨日、夜更かししすぎただけ」

佐藤は疑わず、うんうんと頷いた。

「若い子はすぐ夜更かしするんだから。うちの息子もそうよ」

悠希は曖昧に笑って返さない。あの夜のことを思い出すたび、目の奥で怒りが渦を巻く。

男は欲望を吐き出したあと、そのまま眠りに落ちた。悠希は手を下すつもりだったが、外に車が来る音がした。長居は危険だと判断し、痛む身体を引きずって逃げた。

いつか見つけたら、必ず引き裂いてやる。

――それに今の状況だ。

長川家に嫁いだとはいえ、生活は実質「未亡人」同然。だが名家で、婚姻中の不貞が露見すれば、ろくな結末にならない。

何より彼女自身、この形だけの結婚を続ける気はもうなかった。

翌日、名義上の夫へ離婚を切り出そうと電話をかけたが、拒否された。

この一か月で五回以上かけても、返答は一度もない。

――もう終わらせる。

気持ちを整え、佐藤と一緒に階下へ降りる。佐藤が牛乳を温めに行った隙に、悠希は脇に置かれた経済誌を手に取った。

最近、彼女のいくつかの事業をG市へ移す予定で、提携先を探しているところだった。

ところが今日の一面は、まさかの名家ゴシップ一色。

その中心人物は――結婚して三年、一度も会ったことのない夫だった。

『長川様、子息の存在が発覚。すでに2歳。長川財団の内憂は鎮静化、長川グループ株価は連日上昇』

写真の男は、冷ややかで深い彫りの顔立ち。黒のオーダースーツが体躯を際立たせ、立ち姿は異様なほど凛としている。周囲に漂うのは、上に立つ者の鋭さ。

だが隣の女へ視線を落とす時だけ、その目は水のように優しかった。

殺伐で知られる長川様が、あんな目をする相手。

きっと、よほど愛しているのだろう。

仲睦まじい三人家族の光景は、悠希の頬を平手で殴るみたいに痛かった。

自分が、弄ばれている猿にしか思えない。笑えるほどに。

電話に出ないのも当然だ。彼らの生活を邪魔されたくないのだろう。

悠希は冷たく口角を上げ、誌面の男の高い鼻筋に指先を軽く置いた。

顔は悪くない。――けれど子どもまで作っておいて、こっちには名分すら与えない。クズもここまで来ると清々しい。

迷いは消えた。

彼女はスマホを取り、助手へ電話をかける。――彼らの望み通り、成就させてやる。

長川グループ最上階、社長室。

鈴木青は着信表示を見て眉をひそめた。

「長川様、若奥さまからです。お取りになりますか?」

長川貞也の顔に、露骨な苛立ちが走る。

三年前。祖父が危篤の床で、見ず知らずの女を妻にしろと言い出した。

昔、恩があるから――その返しが結婚だと?

馬鹿げている。

だが祖父の命は半月も持たない状況だった。死に際の願いを踏みにじる気にはなれなかったし、そもそも貞也は結婚に期待も渇望もない。

女は別荘に住まわせておけばいい。それで終わりだ。

「取れ」

鈴木青は頷き、スピーカーにする。

すぐに、冷えた声が響いた。断言するような強さを帯びている。

「鈴木助手。長川貞也に伝えて。離婚する。今日中に必ず戻ってサインしなさい。でなければ、離婚を公表する」

返事を待たず、通話は切れた。

室内の空気が一瞬で凍りつく。

貞也は薄い唇に冷笑を浮かべ、指で机を軽く叩いた。

「大人しくしてたくせに、我慢できなくなったか。離婚で俺を呼び戻す? 笑える」

「望み通りにしてやれ。きれいに処理しろ」

鈴木青は即答する。

「承知しました、長川様」

立ち去ろうとした鈴木青を、貞也が呼び止めた。

「ネックレスの持ち主は、まだか」

鈴木青は首を振る。

「質屋も闇市も当たりましたが、目撃情報はありません」

貞也の顔がさらに沈む。

暗算してきた連中は片付けた。それでも、あの女だけが見つからない。

ネックレスが実在しなければ、あれは夢だったと疑っていたかもしれない。

「行け。5億の小切手と、今住んでる別荘も渡せ」

悠希は電話を切ると二階へ上がり、荷物をまとめた。書斎で離婚協議書も作成する。

ここには一秒だって居たくない。

書類を整えたところで、外からブレーキ音がした。

早い。実に早い。

彼女は必要なものを持って廊下へ出る。

リビングでは、鈴木青が黒いブリーフケースを手に、恭しく立っていた。軽く頭を下げる。

「若奥さま」

悠希は冷ややかに見返す。目尻に嘲りが滲んだ。

貞也の秘書。結局、同じ穴の狢だ。

婚姻届を出した時も、この男は丁寧に言った。

貞也は仕事で多忙、海外常駐。家で大人しくして、連絡はするな――と。

忙しい? 子どもまで作るほどに?

鈴木青はケースから書類を二部、権利書、そして小切手を取り出した。

「こちらが離婚協議書、こちらが補償に関する合意書です。長川様より――若奥さまが三年、独りで留守を守られた功績に報いるため、レイクベイとは別に5億を」

悠希は机上に並んだ四点を見下ろし、片眉を上げた。

そして自分で作った離婚協議書を、その上にぱん、と置く。

「離婚ごときに長川様の手を煩わせる必要はないわ。協議書はこっちで用意した。署名も済ませてある。補償は――私は一文無し。彼に補償できるものなんてない」

優雅に立ち上がり、ふと思い出したように紅い唇を吊り上げる。

「それと、ひとつ勘違いしてる。離婚するのは私。私が、彼を捨てるの。ちゃんと伝えて」

鈴木青は呆然としたまま、颯爽と去っていく悠希を見送った。

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