第2章
鈴木青はしばらく呆然としてから、机の上に置かれた橋野悠希の離婚協議書を手に取った。
構成は明快で、文章も簡潔。要点だけを的確に押さえている。
――これが、田舎の村娘に書けるものなのか?
問題は、離婚理由だった。
『長川貞也は夫婦の義務を履行できないため』
鈴木青の指先がびくりと震え、危うく紙を取り落としそうになる。
これを、長川様に見せろって……?
そのタイミングで、長川貞也から電話が入った。
低い声が、氷のような威圧を帯びている。
「一文追加しろ。離婚の件は外に漏らすな。婚姻関係も公表禁止だ」
鈴木青は言いかけて、飲み込む。
「長川様、若奥様が……」
長川貞也が冷たく遮った。
「サインしないのか? 金か、別の条件か。常識の範囲なら満たす」
鈴木青は深く息を吸い、半ば覚悟を決める。
「いえ……長川様。若奥様はもう署名済みです。ただし、こちらが用意した書類ではありません。若奥様ご自身が作った協議書で、補償も一切受け取らず……それから、『捨てたのは私。私があなたを要らないと言った』と伝えろ、と」
受話器の向こうが、無音になる。
それでも、押し殺した怒りが滲み出るのがわかった。
「……何て書いた」
氷の欠片みたいな声に、鈴木青は冷や汗を流しながら、離婚理由を小さく読み上げた。
再び、死んだような沈黙。
やがて、長川貞也が陰鬱に笑う。
「探し出せ。渡すものを渡して――ついでに聞け。命が惜しくないのか、とな」
レイクベイ別荘地の門から1kmほど離れた幹線道路。
赤いスポーツカーが、やけに目立つハザードを点けて路肩に停まっていた。
綾波東也はサングラスに、胸元の開いた派手な花柄シャツ。首筋には女の口づけの痕が残っている。
橋野悠希を見つけるなり、口笛を吹いた。
「悠希ちゃん、やっと俺の腕に帰ってくる気になったか」
返事の代わりに、小ぶりな黒いスーツケースが頭上から叩きつけられた。
橋野悠希はさっと乗り込み、なお腹の虫が収まらず、彼の脚を一発蹴る。
「目立つなって言ったでしょ。スポーツカーで来るとか、脳みそ犬に食われた? さっさと出しなさい」
綾波東也はへらへら笑い、スーツケースを積むとアクセルを踏み込んだ。
「結婚牢獄からの脱出だ。派手に迎えないでどうする」
橋野悠希は相手にせず、幌を開ける。グローブボックスから化粧道具を取り出し、手慣れた動きでメイクを始めた。
白磁のような肌に欠点はない。数筆で、冷艶な顔が完成する。
よほど目を凝らさなければ、化粧の下の素顔がどれほど幼いかはわからない。
三年間まとめていた髪もほどき、淡い茶の大きなウェーブがさらりと落ちた。
――一瞬で、柔らかな若奥さまから、刺すように美しい女へ。
綾波東也がまた口笛を吹く。
「悠希ちゃん、お前がすぐメスで俺を切ろうとしなきゃ、俺だって本気で惚れるのに。あのクソ男、目が腐ってる」
橋野悠希は涼しい目で彼を見て、視線を遠慮なく股間へ落とした。
「惚れそう? そんなに苦しいなら、いっそ永遠に諦められるようにしてあげる。私と一生、姉妹になりたい?」
綾波東也は即座に脚を閉じる。
「兄弟で頼む!」
咳払いして真面目ぶる。
「三年の縛りも終わったし、離婚もした。じいさんの禁令、もう解けたんだろ?」
橋野悠希は頷いた。
祖父は死ぬ前、彼女に誓わせた。
約束通り長川家へ嫁げ。三年の間は診療をするな。破れば血の災いが起きる――と。
信じてはいなかったが、死者を不安にさせたくもない。
「天道医院、三年閉めた。そろそろ回す。送って」
綾波東也はすぐに下世話へ戻る。
「神医者・ユキ様が消えて三年。探して発狂した奴、千どころか何百はいる。仕事したら数か月休めないぞ? うちの店に新しい美男が揃ってる。腹筋8つ、腕も技も最高。旦那が役立たずで三年我慢したんだ、兄貴が開眼させてやる」
橋野悠希はむせそうになった。
「誰が役立たずだって?」
綾波東也はにやにや。
「長川貞也だよ。ネットでずっとお前探してた。なんか、遊びすぎ+頑固な交差感染っぽい」
橋野悠希の瞳の奥が冷え、ぱき、と手の翡翠の簪が砕けた。
クズ。
子どもを作っておいて名分も与えないだけじゃない。外で遊んで汚い病気まで貰ってくる?
最低の上に最低だ。
彼女がこの世で一番嫌うのは、そういう男だ。――あの「父親」みたいに。
妻子を捨て、愛人を家に入れた男。
だから、クズを見れば叩く。容赦なく。
幸い、ここ数年あの男はレイクベイへ戻らなかった。もし戻って夫婦の義務を果たせなどと言われていたら、首が無事で済むはずがない。
綾波東也は砕けた簪を見て、顔を引きつらせた。
何が起きた?
「……じゃあ、その依頼受けてスッキリするか?」
「受けない。天道ネットで長川貞也を永久ブラックリスト」
冷たい目で言い切る。
――あの男の第三の脚が、一生立たないように。
橋野悠希は簪の欠片を車内のゴミ箱へ放り投げ、表情を元へ戻した。
一週間後。
G市のニュースは同じ話題で埋め尽くされた。
『天道医院、再始動。瀕死の子どもが笑顔で生還』
『世界的難題に光。血液病の新薬、審査段階へ』
『天道医院――ユキ様、再び奇跡』
長川グループ最上階、社長室。
鈴木青が追跡した資料をすべて差し出す。
「長川様。ご家族がG市を出る前に裏取りしました。報道は事実です」
長川貞也の目が暗く沈む。
天道医院の噂は本物だ。――彼に残された最後の希望。
「天道ネットは、まだ入れないのか」
鈴木青は首を振り、妙な顔をした。
「技術部が調べましたが……長川様、ブラックリストに入れられている可能性が」
「……ブラックリスト?」
長川貞也の顔が陰鬱に沈み、勢いよく立ち上がる。
「天道医院へ行く。出入口すべて、地下も含めて24時間張れ。ユキ様が本当に仙人みたいに消えると思うな」
天道医院、研究室。
橋野悠希は二日連続で働き詰めだった。
新薬は突破口を掴んだ。臨床を通れば、救える家庭は数え切れない。
「ピッ――」
入口の警報が突然鳴り、思考が断ち切られる。
綾波東也がすぐに入ってきた。ふざけた笑みの奥に、心配が混じる。
「お前の元旦那が、手下連れて門を塞いでる。倉庫の硫酸、全部運ぶか?」
橋野悠希は苛立ちを隠さず舌打ちした。
「恥ってものがないの? あんな病気で堂々と来るとか」
綾波東也は額を押さえる。
「お嬢様、それは誤解だ。お前が天道ネットでブラックリストにしたせいで余計に拗れた。どうする? 突っ切るか、会うか」
橋野悠希は着替えを終えていた。黒のライダースーツ。美しく、鋭い。
ヘルメットを回し、冷笑する。
「顔を潰したいなら潰せばいい。好きに探させなさい。記者も呼んで撮らせて。長川様の横暴を全国に晒す。私は地下から出る」
天道医院には、トラブル回避用の地下三層の専用ルートがある。
彼女を塞げるわけがない。
病院の外。
長川貞也は車の前にまっすぐ立ち、鈴木青はタブレットで各所の映像を確認していた。
その時、イヤホンから切迫した乱闘音と、エンジンの咆哮が飛び込む。
鈴木青が映像を切り替える。
「長川様、出ました!」
