第4章
「クズ男?」
長川貞也の黒い瞳が、すっと沈む。
「俺のことを言ってるのか」
クズのくせに、病気まで抱えて、まだ白々しく無実面。人神共憤って言葉が似合うその整った顔を見れば見るほど、憎たらしさが増していく。
毒の回った壊死組織を削ぎ落とすと、橋野悠希は薬粉を乱暴に傷口へぱらぱらと振りかけた。ガーゼすら巻かない。
「死にはしない。帰っていい」
長川貞也の顔色は失血と中毒で灰色に近い。それでも、その眼だけは夜の獣――最も獰猛な豹のように、冷たく鋭かった。
女と意地を張り合っても意味はない。
ユキに会えた以上、この機会を逃すつもりはなかった。
「噂ではユキ様は、腕も立つうえに心根もお優しいと聞いていた。だが俺には、表と裏が違うように見える。俺とあなたの間にどんな私怨があるかは知らないが――瀕死の2歳児を門前払いしておいて、天道ネットの理念を語れるのか」
手袋を外しかけていた橋野悠希が、ぴたりと止まる。大きな瞳が訝しげに向いた。
「2歳児? あなた、自分の治療を頼みに来たんじゃないの?」
長川貞也はこめかみが痛くなった。さっきはクズ呼ばわり、今度は遠回しに「病気」扱い。
ふざけるな。
だが橋野悠希はすぐに察した。どうやら依頼の内容が食い違っている。
命がけで屈辱に耐えてまで診てもらいたい相手が、2歳の子ども――となれば、長川貞也の隠し子しかない。
大人同士にどんな因縁があろうと、子どもは無関係だ。
それに、いまの彼女は妊娠している。いつもより心が柔らかくなっていた。表情がわずかにほどける。
「症状は?」
長川貞也の胸に、ぱっと灯がともる。勢いよく立ち上がった。
「診てくれるのか?」
力を入れた瞬間、肩に残っていた毒が一気に回ったのか、身体がずんと重く、痺れて言うことを利かない。足がもつれ――そのまま前へ倒れ込んだ。
子どもの話で一瞬意識が逸れていた橋野悠希は、反応が遅れた。視界が暗くなったと思った次の瞬間、長川貞也がどさりと彼女の上に落ちてくる。
床に倒れ込み、唇が避けようもなくぶつかった。がつん、と歯が当たり、前歯が痛む。
――どんっ。
橋野悠希の中で、何かが弾けた。
あの夜、見知らぬ男に無理やり奪われた時以外、誰かにキスされたことなんてない。
つまり、これは初めてのキス。
相手は長川貞也――元夫。
徹頭徹尾のクズ男。
見知らぬようで、どこか覚えのある松の香り。そこへ血の匂いと薬粉の刺激が混ざり、神経を乱暴に掻き立てる。
羞恥と嫌悪が、一気に押し寄せた。
橋野悠希は迷いなく拳を振り抜き、長川貞也の顔面を殴りつける。
ぶん、と空を裂く音。
長川貞也は反射で躱し、攻撃してきた手首を掴むと、ぐっと床へ押さえつけた。
腕の中の女から漂う、かすかな甘い香り。あの夜の女が脳裏をよぎり、胸の奥がどくん、と鳴る。掌に力が入った。
一撃が外れ、逆に押さえ込まれた橋野悠希が黙っているはずがない。踵で床を蹴って身体をずらし、長い脚を長川貞也の細い腰へ絡め、関節を取って締め上げようとする。
だが――脚が腰に回った瞬間。
言葉にしづらい「それ」が、急速に硬く大きくなる感触があった。
あの夜の痛みを知っている彼女が、わからないはずがない。
「この変態! 不全なんじゃなかったの?」
殺す勢いで技をかける。だが男の力は桁違いで、びくともしない。
長川貞也の整った顔が、悔しさと熱で黒赤く染まった。
反応がないほうが、むしろ異常だ。
それに――誰がそんなことを吹き込んだ?
長川貞也は一気に体勢を入れ替え、また彼女を押さえ込む。黒い瞳に疑念を滲ませた。
「ユキ様。俺たちは面識がないはずだ。どうしてそこまで、俺の――その方面を気にする?」
がちゃり。
外からドアが開き、綾波東也が固まった顔で立っていた。床に倒れ、完全に「そういう体勢」になっている二人を見て、こくりと唾を飲む。
引き剥がすべきか。
それとも礼儀として、そっと閉めて立ち去るべきか。
さっきまでクラブで遊んでいたが、ふと思い立って、長川貞也がまだ病院前で月でも浴びているのか確認しに来た。途中で橋野悠希が車で人を救う場面を見て、嫌な予感がして駆けつけた――結果がこれだ。
空気が地獄みたいに気まずい。
橋野悠希は隙を逃さず長川貞也を蹴り飛ばし、素早く起き上がった。
最悪。
最ッ高に、恥ずかしい。
綾波東也は絶対この件で一生笑う。間違いない。
だが長川貞也の前では、綾波東也はわざとらしいほど真顔を作り、厳粛な空気を装っていた。
本音を言えば、腹がよじれるほど笑いたい。
二人の様子からして、恋人同士――そう見えなくもない。長川貞也は、先ほどの行為が失礼だったことは認めざるを得なかった。
余計なことを言えば言うほど墓穴だ。
氷みたいな気配を纏い、長川貞也は椅子へ戻って腰を下ろす。少し間を置いて、先ほどの質問に答えた。
「2歳の男児だ。悪夢で眠れず、月の半ばになると吐血して失神する。検査値も全体的に悪い。心肺不全。治療は効果なし。海外の専門医は、3歳まで生きられないと言った」
「治してくれるなら、条件は好きに出せ」
綾波東也が意外そうに橋野悠希を見る。目で問う――なんで子どもの治療に話が変わってる?
橋野悠希は苛立ちが収まらず、視線すら返さない。
さっきの一件で、長川貞也がますます「クズで下衆」だと確信した。
女を見れば発情するなんて、社会の害悪。生ゴミ。
……不全じゃないのだけは、腹立たしいほど運がいい。
だが症状の説明を聞く限り、子どもの状態は確かに危ない。元夫の隠し子だろうと、目の前の命が萎れていくのを見捨てるほど、彼女は冷たくなれない。
「助かるかどうかは別として。診るのはいい。その代わり、瑞穂製薬をもらう」
綾波東也がむせて咳き込んだ。
瑞穂製薬は長川貞也が自分で立ち上げた事業のひとつで、伸び方が異常だ。総産値はすでに10億を超えている。
橋野悠希は普段、特に子どもの診療では報酬をほとんど取らない。
ここまでえげつない要求は初めてだ。
つまり――前夫が心底気に食わないのだろう。
綾波東也は腕を組み、面白がって黙っていた。
長川貞也は迷わない。スマホを取り出し、鈴木青へ電話をかける。
「今すぐ瑞穂製薬の譲渡契約書を用意して、天道医院へ持って来い」
鈴木青は寝起きだったのか、声が跳ねた。
「長川様、ユキに会えたんですか? よかった……坊ちゃんが助かります! すぐ向かいます」
通話を切り、長川貞也は橋野悠希を見た。
「30分もあれば瑞穂製薬はあなたのものだ。いつ診察を始められる?」
橋野悠希は少し意外だった。
瑞穂製薬は将来性が抜群で、しかも長川貞也が一から作った会社だ。相当の情熱と手間が注がれているはず。
彼女はわざと要求した。長川貞也が嫌がる顔を見たかった。
なのに、瞬きひとつせず差し出してきた。
クズではあるが、父親としては本気なのかもしれない。
敵意が少し薄れ、時間を決めようとした、その時――長川貞也がふいにスマホを差し出した。
「連絡先、交換してもいいか?」
