第5章
橋野悠希は、隣の手術器具トレーをそのままひっ掴んで、あいつの顔面に叩きつけてやりたかった。
クズ男。
息子の治療に来ておきながら、女にちょっかいを出す余裕だけはあるとか、どんな神経をしてる。
「無理。物を渡したらすぐ帰って。明日10時に連れて来なさい。遅れたら診ない」
言い捨てると、彼女は迷いなく踵を返し、すたすたと実験室へ戻っていった。
長川貞也は、奥底の見えない黒い瞳に冷気を滲ませた。霜でも纏ったみたいに、ひやりと。
……この女。
会社を丸ごと一つ、10億で渡したというのに、治療の経過を知るための連絡先ひとつすら拒むのか。
その理不尽さに、彼は思わず――ふっと笑ってしまった。怒りのせいで、乾いた笑いが漏れたのだ。
実験室に戻った橋野悠希は、洗面所へ直行し、唇が切れそうになるほどごしごし洗った。
それでも。
薄い松の香りだけが、どうしても落ちない。
まるで呪いだ。
あの夜、闇の中で耳元に落ちてきた、獣みたいに荒い息遣い――それと同じように、頭の中から離れない。
ほどなくして綾波東也が協議書を受け取り、悠希の指示どおりに相手を追い出した。ドアを閉めた瞬間、今度は尻尾を振る犬みたいに実験室へ駆け込んでくる。
「悠希ちゃん、なにそれ? 元旦那と遊びすぎじゃない? 傷だらけで出陣とかさぁ……いやぁ、濃いねぇ」
言い終える前に、目の前へすっと差し出されたのは、冷えきった光を放つメス。
「死にたいの?」
綾波東也は秒速で黙った。
悠希は苛立ちをぶつけるみたいに、メスを実木の机へ――ずぶり、と突き立てた。
「天道ネットで男科を希望してた長川貞也。あれ、誰なのか調べて」
綾波東也は察したようににやつき、何か言いかけたが――悠希がメスを引き抜き、場所を変えてもう一度、ずぶり。
背筋がぞわっと冷えた綾波東也は、転げるようにパソコンへ向かった。調べ終えた途端、今度は自分が吹き出す。
「悠希ちゃん、そいつ不調の本名、佐藤仲助。たぶんG市の首富の名前を騙って診てもらおうとしたんだろ。注目されると思ってさ。まさか、そのG市の首富が悠希ちゃんの元旦那だったとはね」
橋野悠希は、言葉を失った。
どれだけ盛大な勘違いだ。
翌日10時。
黒いロールスロイスが、黒いワゴン車3台に挟まれるようにして、天道医院の正面へ静かに停まった。
黒服のボディガードが十数人。病院の前後をぐるりと囲み、撮影も、万が一の危険も、すべて遮断する布陣。
鈴木青がドアを開けると、長川貞也が顔色の悪い小さな男の子を抱いて降りてきた。低い声は、驚くほど優しい。
「涼、いい子だ。今日の先生は本当にすごい。きっと治してくれる」
長川涼は父の首にぎゅっと腕を回し、か細い声で尋ねる。
「お父さん……ずっと涼と一緒にいてくれる?」
長川貞也が一瞬、言葉を詰まらせた、その横から。
後ろに続いて降りてきた鈴木美由紀が、すかさず口を挟む。
「涼はお父さんの子だもの。お父さんはずっと一緒よね、貞也?」
甘い視線が、長川貞也へ絡みつく。
だが長川貞也は目を伏せるだけで、返事をしない。抱いたまま病院へ足を踏み入れた。
鈴木美由紀は胸の奥がちくりと痛んだが、すぐに小走りで追いかける。
――昔から、彼に恋をしていた。
けれど縁がないまま時が過ぎ、海外で偶然再会した夜、彼女は手段を選ばず関係を持った。
ところが相手は長川貞也ではなく、海外で育った双子の弟、長川川人だった。
もう二度と機会はないと思っていたのに、長川川人は若くして亡くなり、涼の存在のおかげで、彼女は長川貞也のそばにいられる。
いつか必ず、この男に自分を愛させてみせる。
「貞也、ちょっと支えて。足、痛いの」
媚びた声で呼び、わざと彼の胸に倒れ込もうとする。
長川涼は母が具合悪いのだと思ったのか、幼い声で言った。
「お父さん、お母さん抱っこして」
鈴木美由紀は恥ずかしさと嬉しさで頬を染め、腕に縋ろうとした――その瞬間。
「……ぷっ」
嘲る笑いが割り込んだ。
「黒の8cmヒールに、シャネルの春物の大人ワンピ。香りはディオールS11。お嬢さん、ここは病院だよ。ランウェイでも夜店でもない」
受付室の入口に、綾波東也が寄りかかっていた。顔いっぱいに皮肉。
長川貞也は何もかも完璧なのに、ひとつだけ致命的に目が節穴だ。
悠希ちゃんみたいな極上を捨てて、どう見ても地雷の義妹と、だらだら――。
鈴木美由紀は目を泳がせた。自分でも今日の格好が場違いだと気づき、すぐに目尻を赤くして、弱々しい表情を作る。
「……斬男香水? 何のことか分かりません。ただ、この服が綺麗だから……涼が喜ぶと思って。気分が明るいほうが、病気にもいいでしょう? 涼も、お母さんがこういうの着るの好きよね?」
長川涼はよく分からないまま、母が悲しそうなのを見てこくこく頷いた。
「涼、好き」
長川貞也はこんな茶番に時間を割く気はない。黒い瞳を冷たく綾波東也へ向ける。
「綾波様。報酬は支払った。今も10時だ」
「長川様は、俺が時間を守らないって言いたいの?」
エレベーターが開いた。
白衣に身を包んだ橋野悠希が、薬箱を提げて出てくる。
冷艶系のメイクが、整いすぎた顔立ちをさらに際立たせていた。淡い茶の長い巻き髪は、診療の邪魔にならないよう木の簪でまとめられ、白い首筋――天鵞絨みたいな曲線が露わになる。背も高く、すっと伸びた肢体が目を奪う。
長川貞也の瞳に、気づかれないほどの一瞬だけ、驚きが走った。だがすぐに視線を逸らす。
鈴木美由紀は、ユキがこんなにも若く美しいとは思っていなかった。胸の警報がけたたましく鳴り、反射的に長川貞也の腕へ絡みつく。所有を誇示するみたいに。
「あなたがユキ様? こんにちは。私は……涼のお母さんです」
橋野悠希は、長川貞也の腕の中の子どもへ視線を落とした。
胸の奥で、火がさらに大きくなる。
祖父のもとで、長川貞也の幼い頃の写真を見たことがある。
この子は、あの頃の長川貞也に瓜二つだ。どう見ても父子。
今朝、綾波東也から聞いた。長川貞也は亡弟の女と子を引き取ったのだと。
それ自体は、事情があるなら他人が口を挟む話じゃない。倫理に反しない限り、誰も責められない。
――けれど、これは違う。
引き取った? 笑わせる。
これはただの不倫だ。しかも弟の妻と。面の皮が厚すぎる。
悠希は心の中で「子どもは無関係、子どもは無関係」と三回唱えてから、氷みたいに言った。
「中へ。抱いて来て」
長川貞也は、たった一晩で、この女の嫌悪が増した気がしてならなかった。
……何かある。
徹底的に調べる必要がある。自分たちの間に、どんな因縁があるのか。
今はただ、涼を抱いたまま診察室へ向かうしかない。
鈴木美由紀も続こうとしたが、橋野悠希が片手を上げて遮った。
「あなたは入れない」
鈴木美由紀の顔が怒りで歪む。
「どういう意味? 私はこの子の母親よ。なんで入れないの? あなた、治療じゃなくて別の目的があるんじゃないの?」
橋野悠希の瞳に刃が宿る。吐き捨てるように叱りつけた。
「母親なら、心肺機能が落ちてることくらい把握してなさい。そんな濃い香水をつけて……早く死なせたいなら入れば?」
綾波東也が「ぷっ」と噴き出す。
この手の口撃は、悠希ちゃんの独壇場だ。
鈴木美由紀は顔を真っ赤にし、言い返そうとしたが――長川貞也が遮った。
「外で待て」
「……っ」
鈴木美由紀は悔しそうに足を踏み鳴らしたが、引き下がるしかなかった。
長川涼は父にしがみついたまま、恐る恐る橋野悠希を見上げる。
「お姉さん……注射、痛くしないで。いい?」
橋野悠希の胸が、きゅっと柔らかくなる。
彼女は膝をつき、子どもと目線を合わせて微笑んだ。温井従子の名にふさわしい、美しい笑み。
「うん。お姉さん、がんばる」
その横顔を見た瞬間、長川貞也の胸の奥が、わずかに揺れた。
――この女、いったい何枚仮面を持っている?
