第8章
黒いロールスロイスが、幹線道路を滑るように走っていた。
長川涼はぐっすり眠り、呼吸も明らかに落ち着いている。だが鈴木美由紀だけは、どうにも苛立ちが収まらなかった。
目の縁はいまだ赤い。しおらしく長川貞也にもたれかかろうとしたが、彼は気づかぬふりで、すっと身を引く。
美由紀は空振りして、気まずそうに口元を引きつらせた。ティッシュで涙を拭うふりをしながら、甘えた声を落とす。
「貞也……あの人たち、ひどすぎる」
あんな屈辱的な形で追い出された。思い出すだけで羞恥が腹の底を煮え立たせ、心臓のあたりがひくひくと震える。
――必ず、どこかでこの借りを返す。
長川貞也は、淡い感情すら映さない黒い瞳で彼女を一瞥した。
「なら、もうお前は病院に行くな。俺が時間どおりに涼を連れて行く」
美由紀の背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。胸の奥から湧き上がるのは、理屈ではない恐怖。声がわずかに震える。
「……ユキの指示なの?」
貞也は答えない。腕の中の涼へ視線を落としたまま、脳裏には橋野悠希の、冷たく艶やかな顔が浮かんでいた。
あの女は、まるで謎そのものだ。眩い光の膜に包まれていて、触れたくなる。剥がして確かめたくなる。
沈黙が返事だった。
美由紀は、悔しさと哀れさを混ぜた嗚咽を漏らす。
「貞也……私、涼のお母さんなのよ。どうして私が連れて行っちゃいけないの」
「ユキは神医者なんでしょう? それなのに、そんな残酷なこと……」
太ももをそっとつねり、涙をぽろぽろ落とす。か細い愚痴を途切れさせず、女の柔らかさと母としての無力さを、これでもかと滲ませた。
貞也はうるさげに眉間を押さえ、冷えた声で言い切る。
「ユキは気性が変わってる。刺激するな。今は何より、涼の病気が最優先だ」
美由紀は顔をこわばらせたが、逆らえるはずもない。
それでも――橋野悠希と貞也が、これから三か月も接点を持つ。
歯を食いしばる。胸の奥が、じりじりと焦げるように危機感で満ちていった。
*
夜八時半。
橋野悠希は研究室を出ると、さっとシャワーを浴び、淡いグレーのセットアップに着替えた。メイクは徹底的に冷たく、艶やかに。長い髪は無造作に流し、凛とした気配だけが際立つ。
三十分後、赤いスーパーカーが夜クラブの正面に、目を奪うほど鮮やかに停まった。
悠希はキーを無造作にボーイへ放り投げ、入口へ向かう――その手前で、足が止まる。
綾波東也が、十数人の男を引き連れて、ずらりと列を作っていた。顔は芸能人級、体はモデル級。わざとらしいほど整った布陣。
「橋野さん、ようこそ。本日は我々が誠心誠意おもてなしし、心ゆくまでお寛ぎいただけるよう――」
悠希の口元が、ひくりと引きつった。人を刺し殺せそうな目つきが、露骨に東也へ突き刺さる。
ここはG市でも名の知れた、金の溶ける場所だ。
男客だけではない。身分のある女客のために、表には出ない「特別な遊び」まで用意されている。毎晩の売上は、軽く千万を超える。
悠希が十八の誕生日を迎えた日――東也は上機嫌で、この夜クラブの権利書と営業許可証を持ってきた。そして豪快に言い放ったのだ。
「これからは兄貴が天下の美男をかき集めて、お前にだけ仕えさせてやる」
その直後、東也はお爺さんに殴られ、皮一枚剥ける勢いで転がっていた。
懐かしい。
悠希はふっと唇を吊り上げる。瞳の冷えがほどけ、気だるい愉悦が差した。その一瞬の笑みに、周囲の男たちが息を呑む。
東也は内心でガッツポーズだ。どれだけ稼ぐより、悠希の笑顔一つのほうが価値がある。
「よーし、全員にチップ!」
東也は悠希の肩を抱いて二階の個室へ上がりながら、男たちに酒を運ばせるよう指示した。
そして扉が閉まった、その瞬間。
悠希は鮮やかな動きで東也を過肩で投げ飛ばし、床に叩きつけた。次いで何事もなかったようにソファへ腰を下ろす。姿勢は優雅、目は氷。
「私が言ったこと、ひとつも覚えてないわね」
相変わらず、信用ならない。
東也は「へへっ」と笑いながら起き上がり、懲りずに距離を詰める。
「約束は九時半だろ? まだ余裕あるって。今夜は大場なんだよ。あいつら、これからステージに出て競りにかけられる。だから先にお前が選べるようにさ。用件片づけてから肉食おうぜ。公私混同はしない主義」
悠希は容赦なく一発蹴った。
「さっさと消えなさい」
言い終えたところで、スマホが鳴る。
画面を見た悠希は眉を寄せた。白い指先でスワイプし、冷えた声を落とす。苛立ちが隠せない。
時間にルーズな人間が、一番嫌いだ。
時間を守れない管理者に、大事は任せられない。
「村木様。こちらはもう到着しています」
受話器の向こうは、切迫した声だった。
「申し訳ありません。私、村木様の秘書でして……村木様が急に発作を起こし、救急搬送されました。本日は伺えません。どうかお許しください」
サイレンの騒音が混じる。
悠希は社交辞令を二言ほど返し、通話を切った。
「村木様、来られないって」
こんな場所で時間を溶かす気はない。立ち上がった悠希の手首を、東也が掴む。
「来たなら見てけよ。しかもここ、お前の店だろ? 経営の空気くらい知っとけって。今日は滅多にない大場だし」
悠希は渋々、東也に押し切られた。この時間に研究室へ戻っても、できることは限られている。
二人はホールへ降り、ボックス席に腰を落とした。
オークションは始まったばかりで、熱気が異様だった。
美男美女が腰に番号札をつけ、ステージ上で艶めかしく踊る。照明がそれを煽り、都会の人間が隠している欲を、露骨なまでに炙り出していく。
男客も女客も、番号札を目印に「欲しい相手」を競り落とす。高値をつけた者が勝ちだ。
酒の相手も、連れ帰りも、その場で一夜を過ごすのも――選ぶのは落札者。
合意が前提。取り消し不可。強要厳禁。
それが、この夜クラブのルールだった。
東也が、十種類のカクテルを載せたトレーを手に戻ってくる。どれも自分で作ったらしい。
「お前、千杯飲んでも潰れないだろ。だから特別に「酔えるやつ」を研究してきた。絶対に酔いの感覚がわかる。俺が付き合ってやる、一緒に朝まで」
そう言って一杯を差し出した。
悠希は手で軽く押し返す。
「飲まない」
子どもをどうするか決めるまで、少なくとも健康だけは守る。最低限、それくらいは。
東也は目を丸くしたあと、腹を抱えて笑い出した。
「悠希ちゃん、面白すぎ。二日一晩ひとりで飲み続けても一滴も酔わなかったの忘れたのかよ。三年「良家の奥さま」やって、真人間になった?」
説明できるはずがない。妊娠のことが東也にバレたら、確実に爆発する。
「やめたの。飲みたくないだけ」
その言い方が、逆に東也の疑念を煽った。
「いや、絶対おかしい。前はコーヒーも飲まなくなって、今度は酒も拒否。……おい、まさか。妊娠した?」
悠希の目が、瞬時に獣のそれへ変わる。尾を踏まれた猫のように、殺気が鋭く走った。
「私と飲みたいなら、いいわよ。三年で腕が鈍ってないか、見せてもらう」
テーブルのサイコロを掴み、指先で弄ぶ。
「昔のルール。負けたほうが飲む」
東也は袖をまくり、やる気満々で乗ってきた。
数分後――十杯のカクテルが、全部東也の腹に収まっていた。
その酒は元々、悠希のために作ったものだ。度数は高く、混ぜれば混ぜるほど、厄介な効き方をする。
東也は目がとろんとしながらも、負けず嫌いでテーブルを叩く。
「ラスト一回! さすがに全部勝つとかありえねぇだろ!」
ステージのほうは、すでに終盤に差しかかっていた。
悠希は、襟元をだらしなく開けて鹿みたいな顔をしている東也を眺め、唇を弧にする。
「いいわ。最後は大きくいく。負けたほうが、ステージに上がって「商品」になる。――やれる?」
