第1章 戻ってきて一緒に寝て

「森川さん。人は自分のことに責任を持たないといけません。とくに健康はね」

医師はふう、と息を吐き、首を横に振りながら、手にしていた検査結果の紙を森川汐里の前へ置いた。

そこにははっきりと――妊娠していない、と記されている。

「でも今朝、起きてすぐ測ったんです。検査薬、ちゃんと線が二本出て……」

汐里は諦めきれず、食い下がった。

医師の目に、わずかな同情が浮かぶ。

「検査薬は条件次第で誤差が出ます。それに森川さん、もうこれ以上、身体を無理に揺さぶるのは……。仮に妊娠していたとしても、必ずしも――」

言いかけて、医師は口をつぐんだ。

汐里は唇を噛む。瞳の奥にあった希望が、少しずつ削れていく。

蒼白な顔色を見て医師は心配そうにしつつも、医師として言うべきことを言った。

「医師としては、早めに化学療法を受けていただきたい。国内の医療環境も整ってきていますし、あなたの病状なら、適切に治療すれば三年、五年は――」

「……私には時間がないんです」

汐里は独り言のように呟き、それでも医師の顔を見据えた。

「先生。もう一回だけ、試したいです」

排卵誘発の注射はもう三回打っている。もう一回増えたところで、どうということはない。

医師は眉を寄せた。目の前の若い女性が、なぜここまで固執するのか理解できない。

「よく考えてください。ホルモン剤です。副作用も――」

「大丈夫です。分かってます」

医師はまだ何か言いたそうだったが、汐里の頑なさを前に、結局はため息をつき、書類にサインをして手渡した。

「二階へ。注意事項は……もう言わなくても分かりますね」

「前に聞いたので覚えてます」

汐里は両手で受け取り、背を向けた。

ドアを開ける直前、ふと振り返り、椅子に座ったままの医師へ微笑む。

「ありがとうございました」

――この世の終わり際に、唯一、善意を向けてくれた人。そう思うと胸が痛んだ。

注射は痛い。

排卵誘発剤を打った以上、妊娠を狙うなら二十四時間以内に事を済ませなければならない。

家へ戻った汐里は、今度はどんな口実で藤原由真を呼び戻すか、ひたすら考えた。

一度目は、仕組んで脅して、誘惑した。

二度目は、酒に紛れさせて薬を盛った。

由真は、もう彼女を心底嫌っているだろう。

感傷に浸っている暇はない。汐里は覚えきった番号へ電話をかけた。

そして、長い長い呼び出し音。

由真は、彼女の電話など出ない。

それでも汐里は腹を決めていた。ネットで仮想番号を購入し、番号を変えながら執拗にかけ続ける。

一時間後。ついに、受話器の向こうから荒れた声が飛んできた。

「森川汐里、お前、頭おかしいのか?!」

その言葉に、彼女は自嘲気味に笑った。

そうだ。おかしい。しかも骨の髄まで。

由真は苛立ちを隠さず、冷たく問い詰める。

「で、何が目的だ」

「藤原由真」

汐里は沈んだ声で、彼の名を呼んだ。

「離婚したいって言ったよね。……いいよ、同意する」

由真が一瞬、言葉を失う。

記憶の中の汐里は、こんなふうに落ち着いて話したことがない。情緒不安定に叫ぶか、延々と絡みつくか、そのどちらかだった。

「本気か?」

「うん」汐里は答え、続けた。「でも条件がある。今夜、帰ってきて。……えっと、一緒に寝て」

唇を噛み、羞恥を飲み込んで言い切る。

案の定、向こうは鼻で笑った。

「それが新しい手か? 森川汐里、いい加減にしろよ」

汐里は声を強めた。

「離婚協議書はもう鈴木弁護士に見せてある。今夜来ないなら、私はサインしない。そうしたら、あんたは一生、小野雨音と結婚できない」

「彼女は一生、浮気相手のまま。……よく考えなよ」

言い終えると、汐里は通話を切った。

由真は必ず来る。

小野雨音のこととなれば、彼はいつだって最優先だ。

明るい月が空にかかり、星が瞬く。

汐里にそれを眺める余裕はない。浴室へ入り、熱い湯を浴びた瞬間だけ、心が少し静まった。

――いろいろ、腑に落ちた。

藤原夫人という空虚な肩書にしがみつくより、執着を手放して、人生の最後をちゃんと生きたほうがいい。

ただ、その前に果たすべき責任がある。

二人の子どもを救うこと。由真が知らない、集中治療室で管だらけになり、それでも彼女を見ると「ママ」と甘く呼んだ子。

医師は言った。助けられるのは、血縁の臍帯血だけだと。

――でも、時間がない。

鍵が開く音がしたとき、彼女はまだ洗い終えていなかった。

汐里は慌ててバスタオルで水滴を拭い、浴室を出た瞬間、強い力で腕を引かれた。

次の瞬間、ベッドへ叩きつけられる。

藤原由真。

彼の身体から伝わる冷気。清冽な香りの奥に、濃い酒の匂い。

「……飲んだの?」

「飲まなきゃ、吐き気を我慢してお前に触れられるか」

その一言で、女としての尊厳が粉々になった。

汐里は怒らなかった。

由真の手が乱暴にタオルを引き剥がし、濡れた肌が空気に晒される。水滴がまだ残り、足元からぞくりと冷えが這い上がって、思わず身を震わせた。

「由真……放して。寒い……」

懇願する彼女の手を、由真は嫌悪するように振り払う。

隙を突いて汐里はタオルを巻き直し、少しだけ体温を取り戻した。

視線を上げ、穏やかな声で言う。

「帰ってくるの、早かったね」

「離婚するなら、早いほうがいい」

彼は影の中に腰を下ろす。灯りが半身だけを照らし、明暗が揺れた。

汐里は苦い唾を飲み込み、指先で彼の首にそっと絡みつく。耳元へ息を落とし、囁いた。

「じゃあ、急ごう。……始めよ」

由真の瞳が沈む。

片腕で腰を抱き寄せ、そのまま後ろへ倒れ込んだ。

受け入れた瞬間、鋭い痛みが走る。だが考える暇もなく、男の体重が容赦なくのしかかった。

「由真……少し、優しく……」

力のない懇願は届かない。由真は彼女の訴えを無視し、ただ荒々しく欲を吐き出す。

汐里は壊れた人形のように弄ばれ、唇を噛んで、身体の不快感を必死に押し殺した。

三十分ほど経ち、ようやく嵐が収まる。

汐里は指一本動かす力すら残っていなかった。

鼻腔に煙が流れ込む。むせて咳き込み、涙が滲む。

痛む身体を引きずり、ベッドの端からどうにか起き上がった。

由真はもう服を整え、離婚協議書を投げてよこす。

「サインしろ」

眉をひそめ、機嫌の悪さを隠そうともしない。

汐里は紙を受け取り、口元だけ笑って脇へ置いた。

「そんなに待てない?」

「何がしたい」

由真は完全に怒り、歩み寄ると、長い指で彼女の細い首を掴んだ。じわりと力が入る。

咳き込みたい衝動が喉で潰れ、顔が赤くなる。

汐里は彼の指を一本ずつ剥がし、何度か息を整えてから言った。

「私が言ったのは『今夜、そばにいて』ってこと」

「藤原由真。夜明けまで、まだ六時間ある」

その声には、拒否を許さない硬さがあった。

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