第2章 花火を二連買って交互に打ち上げる

藤原由真は鼻で笑った。

「……何のためだ」

森川汐里は視線を落とす。

――そう、何のためだろう。

いつから藤原由真を好きになったのか、もう思い出せない。

必死に辿ろうとしても、二十数年の記憶のほとんどが、藤原由真で埋まっている。

隣同士の家。幼いころから一緒に育ち、影のように寄り添ってきた。

誰もが「お似合いだ」「天が結んだ縁だ」と言った。

身体の弱い彼女を、藤原由真はいつも気にかけた。

暗闇が怖いと言えば、星形のライトを持ち歩き、「これが光ってる間は、俺がそばにいる」と言ってくれた。

――それが、いつから壊れたのか。

藤原由真は煙草を一本、また一本と吸う。

森川汐里は煙にむせ、堪えきれず洗面所へ駆け込み、喉の奥から鉄臭いものを吐き出した。

赤い血が白い陶器に落ちる。

蛇口をひねり、水に溶けて薄まっていく色を見つめながら、運命の皮肉に笑いたくなった。

神様は、彼女が幸せすぎたと思ったのだろうか。

だから、周りのものを一つずつ奪っていく。

二十歳のとき。期待に胸を膨らませ、ウェディングドレスを着て藤原由真に嫁いだ。

その結婚式の場で、藤原由真は両親の訃報を知らされた。

しかも犯人は――彼女の家族。

実の母親。

その後、母と叔父は「政略結婚」を名目に藤原家の企業を次々と掌握し、強引に森川家と統合した。

結果、藤原家の産業を実質的に握ったのは叔父だった。

誰もが衝撃を受けた。だが、それは現実だった。

森川汐里は信じられなかった。両親が早くから藤原家の財産を狙い、彼女の結婚さえ道具にしていたなんて。

けれど藤原由真は、彼女が無関係だとは信じなかった。

あの日、藤原由真は両親を失い、会社を失い、そして感情のすべてを失った。

彼は彼女の目の前で、あの星形のライトを床に叩きつけ、粉々にした。

目を真っ赤にし、指を突きつけて叫ぶ。

「出ていけ、森川汐里! 今すぐ消えろ!」

どれだけ説明しても無意味だった。

森川汐里は家へ戻り、叔父の家のドアを拳で叩き続けた。どうして、どうしてこんなことを――。

だが叔父は冷笑し、彼女を海外へ放り出した。

海外で知った。自分が妊娠していることを。

帰国を防ぐため、叔父は監視役までつけた。

不安と食欲不振の妊娠期間。

生まれた子は重い白血病を抱え、莫大な医療費でようやく命を繋いだ。

藤原由真に相談したくても戻れない。

六年待って、ようやく監視が緩んだ隙に逃げ帰った。

だが帰国した彼女が見たのは、藤原由真の腕の中にいる別の女だった。

小野雨音。

友人は言った。彼女は藤原由真の人生の光で、最も辛い時期を支えたのだと。

友人は言った。藤原由真は彼女を掌の宝のように扱い、彼女のために一から帝国を築き直したのだと。

三年で勢力を拡大し、今や森川家と拮抗するほどに。

二人は愛し合っている。だが結婚できない。

理由は、森川汐里が知っている。

六年前、式の前にすでに入籍していた。

法的には、森川汐里が本物の妻――藤原夫人だった。

この六年、藤原由真は何度も離婚を迫った。脅しもした。

それでも森川汐里は歯を食いしばって拒んだ。

藤原由真はまだ自分を愛している。

真相を調べ、潔白を証明してくれる。

そう信じていた。

だが待っていたのは、胃癌末期の宣告だった。

胃の奥から酸がこみ上げ、森川汐里は吐いた。鉄錆のような血が混じり、洗面台に落ちる。

その音で藤原由真が来た。

「また何の芝居だ」

不機嫌な声。だが洗面台の血を見た瞬間、彼の瞳孔がわずかに縮む。

それでもすぐに冷たさへ戻った。

森川汐里は、その一瞬の揺れを見逃さなかった。

――まだ、気にしてる。

涙で視界が滲む。

「由真……私、すごく重い病気だって言ったら、あなたは――」

言い終える前に、藤原由真が嘲笑で遮った。

「やめろ。同情を引くな。お前が死んだら、俺は花火でも上げて祝ってやる」

「それに離婚しなくてもいい。死亡届持って、雨音とすぐ入籍できる」

森川汐里は言葉を失った。

水が血を洗い流していく。

月明かりの下、床に伸びた彼女の影は長い。

元々痩せていた身体は、病に削られ、骨ばかりになった。

静かにしていると、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。

「今日はどこへ行ってた」

藤原由真は煙草の火を水で消し、蛇口を閉めた。

森川汐里は顔を上げ、胸の奥に小さな期待が灯る。

「……心配してくれてるの?」

「勘違いするな。今日は鈴木弁護士を寄越して、別居後の離婚の話を進めようとした。だがお前がいなかった」

希望は粉々に砕けた。

「病院に行ってた」

「病院? 何しに」

「……病気だって言ったでしょ」

森川汐里は口元だけで笑った。苦い笑み。

「森川汐里!」

藤原由真は怒鳴り、しばらく沈黙したあと、妙に冷静な声になった。

「俺は、お前を一度も見抜けたことがない気がする」

森川汐里は黙った。

空気を満たすのは、藤原由真の声だけ。

「俺たちは一緒に育った。お前が欲しいものは何でも用意した」

「藤原家の財産が欲しいと言われたって、渡した」

「なのに、なんで……なんでこんなことを計画して、俺の親を殺した」

「親父も母さんも、お前を本当の娘みたいに可愛がってた」

「結婚したあと、お前が望めば何だってくれたはずだ。なのにお前は、何年も俺を騙して――」

森川汐里は喉が詰まり、震える声で言った。

「由真……私が本当に、何も知らなかったって言ったら……信じてくれる?」

「……は」

藤原由真は喉の奥で冷たく嗤った。

信じない。

森川汐里は分かっていた。

両親を失い、契約違反の違約金に押し潰されそうな藤原由真。

そこへ森川家が藤原家の資産を買い叩き、彼女は叔父に海外へ捨てられた。

そんな状況で「私は知らない」は通らない。

「由真……」

「森川汐里。頼むから……もう俺を折るな」

前のチャプター
次のチャプター