第4章 あんたは娘の命が要らないのか
向こうから浴びせられる罵声を聞きながら、森川汐里はふいに、ひどく他人事みたいに感じた。
声だけは、あまりにも馴染み深い。
けれど吐き出される言葉は、骨の髄まで冷えるほど刺々しい。
最初の二十年、彼は彼女に一度だって強い言葉を投げなかった。
いつだって優しく守って、甘やかすみたいな声で、そっと宥めてくれたのに。
森川汐里は最後まで黙って聞き、口元だけを吊り上げた。声は驚くほど落ち着いていた。
「由真。私、暗いのが怖いの」
「あなたのところに……星形のライト、まだある?」
藤原由真の我慢は、もう限界だった。荒い息が受話器越しに伝わってくる。
「くだらねえこと言うな! 離婚協議書だ、いつ渡せる!」
「親父と母さんに少しでも申し訳ないと思うなら、さっさと離婚して消えろ。好きにどっか行け。二度と顔見せるな!」
「……分かった」
森川汐里は小さく息を吸い、言った。
「約束する。ただ、七日待って」
声に、ほんの少しだけ縋る色が混じる。
「由真、絶対に反故にはしない。だけど……この数日でいいから、時間があるときに、一回だけご飯を一緒に食べられない? ほんの少しでいいの」
返ってきたのは、冷たい通話終了音だった。
胸が痛まないわけじゃない。
ただ、痛すぎて――もう麻痺している。
そのとき、肩にどんっと衝撃が当たった。
森川汐里が見下ろすと、古びた服を着た小さな男の子が立っていた。頬は涙でぐしゃぐしゃで、ぶつかったことに気づくと慌てて頭を下げる。
「ごめんなさい、おばさん……わざとじゃない」
森川汐里は胸がきゅっとなって、ゆっくりしゃがみ込んだ。
「大丈夫。……お母さんは?」
男の子は鼻をすすり、泣き声混じりに言う。
「ぼく、病気で……ママ、働きに行った。病院で一人で治療してって」
「じゃあ、どうして病院から出てきたの?」
その一言で、男の子は堪えきれなくなったみたいに泣き出した。
「うぅ……ぼくが病気じゃなければ、ママ、あんなに働かなくていいのに……」
「病気って、お金がすごくかかる。もう迷惑かけたくない……」
森川汐里の胸が、えぐられた。
――病気は、お金がかかる。
少しだけ考えてから、彼女は鞄の中の現金をすべて男の子の手に押し込んだ。
「これ、全部あげる。治療の足しになるか分からないけど」
紙幣の束はずしりと重い。二、三十万円くらいだろう。
男の子は目を丸くした。
「おばさん……これ、全部?」
森川汐里は頷き、かすれるように呟く。
「……どうせ、もう使わないから」
男の子は不思議そうに首を傾げた。
「おばさんも病気?」
「うん。治らない病気」
森川汐里は苦笑し、今度は純金のネックレスを取り出して、男の子の首にそっとかけた。
男の子は慌てて、金とネックレスを返そうとする。
「ママが言ってた。人の物、勝手にもらっちゃだめって……」
森川汐里は首を傾げ、柔らかく笑った。
「じゃあ、詩を一つ暗唱して。お礼、それでいい」
男の子は勢いよく頷き、声を張った。
「冬来たりなば春遠からじ――」
暗唱を終えると、男の子は首のネックレスは外さないまま、手の現金だけを森川汐里に返した。
「おばさん、ぼくは一つだけでいい」
「残りは返す。……それと、おばさんが病気を治せるくらい、もっとお金が増えますように」
そう言い残して、男の子は走り去った。
森川汐里は手元の金を見つめ、遠ざかる小さな背中を見送った。胸の奥が、言葉にならないもので満ちていく。
金は命綱にもなる。
そして、毒にもなる。
母と叔父は金のために藤原の両親を陥れた。
けれど自分は、金であの子の命を繋げるかもしれない。
住まいへ戻り、鍵を差し込もうとしたとき。
視界の端に、艶やかな後ろ姿が映った。
白いロングワンピース。黒髪を肩に流し、甘い声で言う。
「森川さん、ですよね。ずいぶん待ちました」
女は手を差し出した。仕草は優雅で、あまりに自然。
森川汐里は一目で分かった。
藤原由真のスマホの待ち受けは、いつもこの女だった。
小野雨音。
「……何の用?」
森川汐里は波立つ心を押し込み、声を平らにした。
小野雨音はバッグから招待状を取り出す。赤地に金の装飾が眩しい。
「私と由真の結婚式、七日後に挙げるんです。よかったら、来てください」
差し出された赤が、目に痛い。
森川汐里は受け取らず、笑った。
「私が式場をめちゃくちゃにするかもって、怖くないの?」
「怖くないです」
小野雨音は自信満々に言い、口元に底の見えない笑みを浮かべた。
「……あなたが、娘の命を捨てるなら別ですけど」
森川汐里の心臓が跳ねた。瞳孔が大きく開く。
「どうして……私に娘がいるって知ってるの?」
嫌な予感が、じわじわと広がっていく。
この世界で、実の父親である藤原由真でさえ知らない。なのに、なぜ小野雨音が。
小野雨音は涼しい顔で言った。
「知ってますよ。白血病になったのは、取り上げのときの感染が原因」
「教えてあげます。あのときの医者、私の叔母なんです」
笑みがさらに大きくなる。挑発の色を帯びて。
「可哀想な子。生まれてから、世界の綺麗なものを何一つ知らないまま――」
森川汐里は拳を握りしめた。怒りで全身が震える。
「……どうして」
「由真のために決まってるじゃない」
小野雨音の声は、毒を塗ったみたいに冷たい。
「娘を生かしたいなら、さっさと離婚協議書を由真に渡すこと」
「ついでに言うと、六年前の事故も偶然じゃない。ブレーキにちょっと細工しただけで、あっさり逝ってくれた」
「運がなかったですね」
森川汐里は、その場に縫い付けられたみたいに動けなかった。
「……人の命よ。どうしてそんなことができるの」
小野雨音は肩をすくめる。
「藤原の老夫婦があなたを溺愛して、由真と結婚させたがった」
「私が今の位置に来るには、邪魔だったんです」
唇を吊り上げ、森川汐里へ顔を寄せる。
「あなたの病気、もう末期でしょう」
「今日はね、分かったまま死ねるように、教えに来たの」
――パァン!
森川汐里は全身の力を込めて、小野雨音の頬を叩いた。
小野雨音が反応するより早く、森川汐里は彼女を壁へ押しつけ、首を絞め上げた。
喉が潰れたような音が漏れ、小野雨音の顔がみるみる赤くなる。
森川汐里の目は真っ赤だった。底なしの殺意。
小野雨音は、彼女が本気で殺すつもりだと悟り、恐怖で指先が震えた。必死に指を剥がそうとする。
――そのとき。
首の圧が、ふっと消えた。
小野雨音は大きく息を吸い、げほげほと咳き込みながら、ようやく声を取り戻す。
「私に手を出したら、由真が許さない」
森川汐里は冷たく言い放つ。
「私、死ぬ人間だよ?」
「それでも、怖いと思う?」
