第5章 彼女の血で道を切り開く

森川汐里は冷笑し、足を上げると、迷いなく小野雨音の腹を蹴り飛ばした。

雨音は痛みに顔色を失い、腹を押さえたまま目を見開く。そこに浮かぶのは、露骨な恐怖。

「森川汐里……私が死んだら、あんたの娘も長くない!」

「なら、あんたも一緒に埋めてやる」

汐里は傍らの木の棒を掴み、雨音めがけて振り下ろした。

――ドンッ。

鈍い音。肉を打つ、重い響き。

けれど倒れたのは雨音じゃない。

藤原由真だった。

由真は暗い顔で汐里を睨みつける。まるで千切りにしてやると言わんばかりの眼差し。だが次の瞬間、雨音へ向けた視線だけが、嘘みたいに柔らかくなる。

「雨音、大丈夫か」

雨音は怯えた小動物みたいに目を潤ませ、由真に縋りついた。

「……大丈夫」

汐里は棒を放り捨て、泥だらけのまま起き上がる。指先から暗い血がつう、と垂れた。

「藤原由真……あんた、本当に救いようがないくらい目が見えてない」

こんな毒の塊みたいな女を、宝物みたいに抱きしめるなんて。

由真は理解しない。痛みなど意にも介さず雨音を抱き寄せ、凍えた声で吐き捨てる。

「目が見えてなかったのは俺だ。二十年も……お前みたいな女を愛した」

その腕の中で、雨音が小さく震える。怯えているふりをしながら――汐里は見逃さなかった。彼女の瞳の奥を走った、ほんの一瞬の挑発を。

……分かった。

最初から仕組まれていたのだ。

招待状を持ってきて、わざと煽って、怒らせて。ちょうどいいタイミングで由真に見せつけるために――。

汐里は深く息を吸った。

恐ろしい女だ。ここまで計算できる人間がいるなんて。

自分も由真も、馬鹿みたいに掌の上で転がされている。

由真の声が、露骨に苛立っている。

「森川汐里。今すぐ離婚しろ。もう一秒も待てない」

その言葉を聞いた瞬間、汐里はふっと目を上げ、狂ったみたいに笑った。

「藤原由真。七日って言ったでしょ。一日だって減らさない」

「……救いようがない!」

汐里は唇を吊り上げ、由真の腕の中の雨音を見据えた。

「それだけじゃない。この七日間、あんたに命令する」

「毎晩、私のところへ来て。一緒にいなかったら――小野雨音を殺す」

由真の怒りが爆ぜる。荒々しく汐里の手首を掴み上げた。

「脅してるのか」

「そうだよ」

汐里は目を細め、わざと毒を塗る。

「数年前、あんたの両親を殺す計画ができたなら、雨音を殺すくらい簡単」

「……自分で考えな」

「森川汐里、気持ち悪い!」

由真が本気で怒っている顔を見て、汐里は奇妙な快感すら覚えた。胸の奥が、冷たく、すうっと軽くなる。

「安心して。七日が過ぎたら、約束通り消える。二度と、あんたの前に現れない」

由真は黙り込み、眉をひそめたまま汐里を見た。

嫌なのだろう。だが彼は、雨音を傷つけられない。

人には弱点がある。

汐里の弱点は娘。

由真の弱点は小野雨音。

どうせ由真の中で自分は、取り返しのつかない極悪人だ。

なら、もう少し狂ったところで、何が変わる。

汐里は考えさせる隙を与えず、ドアを開けて中へ入った。

「夜七時。家で待ってる」

そう言って、扉を閉めた。

新居の大きな窓から外を見ると、二人の姿はもうない。

由真は雨音を病院へ連れて行ったのだろう。殴られたのは雨音じゃなく、由真だったのに。

由真という人間はそうだ。

愛しているときは、空の星でも摘んで差し出す勢いで甘やかす。

憎んだら、たった一言すら惜しむ。

……でも。

汐里は、もう濡れ衣のまま死にたくなかった。

どうして自分の血で、雨音の道を切り開かなきゃいけない。

決意して、スマホを取り出す。動画の録画を開始した。

画面の中の自分は痩せこけ、頬は落ち、目だけがやけに大きい。それでも汐里は、優しく笑って言った。

「悦子、ママだよ」

「この動画を見る頃、ママがもうこの世にいないかもしれない。でも、悲しまないで」

「ママは形を変えて、ずっとそばにいるから」

「いつも笑顔でいてね。名前の通り、すくすく健やかに……これからの人生を、しっかり歩んでいって」

胃癌だと知ってから、汐里は毎日こうして動画を撮ってきた。

気づけば、もう何GBにもなっている。

保存して、USBへ移す。

配送の手配をして、発送日時を指定した。

ベッドに横たわると、胸の奥に小さな棘が残ったままだった。

雨音の言葉。六年前の出来事。

汐里はふいに起き上がり、かつて藤原家で働いていた使用人の連絡先を探し出す。

番号を押す指が、止まらないほど震えた。

――今まで、自分から真相を調べようとしなかった。

コールはすぐ繋がり、懐かしい声が耳に届く。

「はい、どちらさま?」

「鈴木さん……私、汐里です」

「まあ、森川さん! どうして電話を? この数年、どうしてたの」

心配してくれる声に、汐里の目が熱くなる。

海外で、こんなふうに本気で気にかけてくれた人はいなかった。

鈴木さんは、汐里と由真の成長を見守ってきた人だ。

藤原家が崩れたあとも由真のそばにいたはずなのに、今回帰国してから姿を見なかった。

二年前に病気で辞め、故郷へ戻ったと聞いている。

「鈴木さん、今どこ? 聞きたいことがあるの」

向こうが二秒ほど黙り、探るように言った。

「森川さん……今も若様と一緒なの?」

汐里は唇を噛む。その言い方に、何かを知っている気配があった。

「……一緒とも言えるし、言えないとも言える」

「鈴木さん。何か知ってるの?」

鈴木さんはしばらく沈黙し、やがて決心したように言った。

「奥さま……会って話しましょう」

「今から切符を取ります。明日の朝には着けると思うけど、いいですか」

「うん。迎えに行く」

胸の奥で、止まっていた心臓がまた動き出した気がした。

由真は信じない。

でも鈴木さんが真相を知っていて、由真に話してくれたら――信じるはずだ。

調べれば、真実は浮かぶ。

そうすれば、潔白を証明できる。

汐里は興奮と同時に、悔しさで胸がいっぱいになった。

スマホで通話を録音し、USBへ移す。

時計の針が七時十五分を指したとき、玄関から大きな音が響いた。

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