第6章 お前、謝る気はないのか
森川汐里は、びくりと全身を震わせた。
考えるまでもない。誰が来たのかなんて。
足音が、遠くから近づいてくる。1階のホールを抜け、2階の階段へ。やがて――自分の部屋の前で止まった。
震えが、どんどん速くなる。胸の奥まで揺さぶられて、抑えが利かない。
「――ッ!」
ドンッ、と鈍い音。次の瞬間、扉が藤原由真に蹴り破られた。
森川汐里は震える睫毛の下で息を呑む。由真が背後まで歩み寄り、冷えた声を落とした。
「何を怯えたふりしてる。結局、お前がやってることは全部、俺を戻したいだけだろ」
苦さが胸に広がった。心臓のあたりに何かが詰まって、息がうまく通らない。
けれど――以前、自分が由真に言った言葉を思い出すと、妙に納得もできた。
由真の中で自分は、もう取り返しのつかない罪人だ。なら、今さら何を足掻く。
森川汐里は無理に口角を上げ、震える指で彼の胸に触れた。
「……帰ってきたの?」
藤原由真は見もしないで、その手を払いのけた。
森川汐里はよろけ、床に倒れる。
ゴホッ、と情けない咳が漏れた。それでも彼女はすぐに起き上がり、何事もなかったように立ち直る。
その姿が癇に障ったのか、由真は眉をひそめ、露骨な嫌悪を向けた。
「森川汐里。俺、なんで気づかなかったんだろうな。お前がこんなに下品だって」
唇が震える。森川汐里は笑顔を貼りつけた。
「前は……あなた、こんなじゃなかった。忘れたの?」
その一言が火種になった。
藤原由真は彼女を乱暴にベッドへ投げ、血走った目で睨みつける。喉元まで噛みついてきそうな顔。
「よく言う。お前らが俺の家を壊さなきゃ、俺はこうなってない!」
森川汐里はそっと目を閉じた。怒りの熱を、ただ受け止める。
反応しない彼女に、由真はさらに苛立った。
「森川汐里。お前、謝る気はないのか」
森川汐里は涙を溜め、彼を見つめ返す。
「……どうして信じてくれないの? あの子がわざと私を煽ったから……あなたは、私があんなことをするって本気で思う?」
藤原由真は一瞬だけ言葉を失った。だが次の瞬間には冷笑が戻る。
「お前はいつもそうだ」
大きな手が彼女の顎を掴み、逃げられないように固定する。
「謝れないのか。言い訳ばかりで。……なあ?」
「……私、悪くない」
掴む力が強すぎて、森川汐里は歯の隙間から絞り出すように言った。涙が視界を滲ませ、由真の顔がぼやける。
藤原由真は手を放し、嘲った。
「その意地だけは、感心する」
次の瞬間、服が乱暴に引き裂かれた。
彼は彼女を、ただの道具みたいに扱う。痛みと屈辱が押し寄せ、森川汐里の喉が詰まった。
「どこまで強がれるか、見せてみろ」
心が痛い。涙が止まらない。
――どうして、こんなふうになってしまったのだろう。
途中で、藤原由真のスマホが鳴った。彼は迷いなくスピーカーに切り替える。
「由真、目が覚めたの。ちょっと苦しい……来てくれる?」
小野雨音の甘い声が、部屋の空気を汚すみたいに響いた。
森川汐里は無意識に、由真の服の裾を掴んでいた。
けれど藤原由真は一切迷わない。
「分かった。すぐ行く」
そう言うと彼は森川汐里を引きずり起こし、ドアへ向かって乱暴に引っ張った。
「病院へ行け。雨音に謝れ」
森川汐里は青ざめた。
「藤原由真、服が破れてる……!」
藤原由真は嘲るように見下ろす。
「それで外に出られないのか? お前、そういうの好きだろ」
森川汐里は歯を食いしばり、必死に身体を隠す。階下のソファでコートを掴み、震える手で羽織った。
「行かない!」
藤原由真の視線が冷たく滑る。
「森川汐里。昼間に裸同然で外に出たくなければ、逆らうな」
森川汐里は肩を震わせ、コートを握りしめたまま、黙って従った。
車は猛スピードで病院へ。到着すると彼女は腕を掴まれたまま、ほとんど引きずられるように小野雨音の病室へ連れて行かれる。
小野雨音は一瞬だけ、得意げな光を瞳に走らせた。だがすぐに怯えたふりをして、藤原由真の胸にすがりつく。
「由真……どうしてお姉ちゃんが……」
藤原由真は雨音を抱き、耳元で宥める。
「大丈夫。俺がいる。こいつはお前に手を出せない」
森川汐里は床へ突き飛ばされた。
病と、さっきの乱暴な扱いで痛みが強く、すぐには立ち上がれない。
小野雨音は可哀想ぶって言う。
「お姉ちゃん、立って謝ってくれたら……これで終わりにします」
藤原由真は眉をひそめた。
「森川汐里。自分で立てないのか」
そして吐き捨てる。
「それとも生まれつき、土下座するのが好きなクズか?」
森川汐里は歯を食いしばり、どうにか立った。
由真の前では、謝らない選択肢なんてない。
それに――今の自分は、身体を削ってまで争っている場合じゃない。妊娠を望んでいるのに、これ以上消耗したら致命的だ。
――終わらせよう。
森川汐里は唇を噛み、声が震えないように言った。
「申し訳ありません、小野さん。私が衝動的でした。お詫びします」
深く頭を下げる。
だが顔を上げた瞬間、視界がすっと暗くなった。身体がぐらつき、足元が頼りない。
藤原由真は嘲るように一瞥しただけで、助けもしない。
「消えろ」
それだけ言った。
森川汐里は冷汗を滲ませ、深呼吸しながら病室を出た。逃げるように廊下へ出て、二歩――歩いたところで、
ふっと、世界が落ちた。
視界が真っ黒になり、身体が崩れ落ちる。
意識が途切れる直前、誰かが駆け寄ってくる気配だけがした。
藤原由真ではない。――それだけは分かった。
……
目を覚ますと、病室だった。そばにいたのは医師だけ。
「目が覚めましたか」
医師は心配そうに覗き込む。
森川汐里は身体を起こし、昨夜のことを思い出して喉の奥に苦さを押し込んだ。
「森川さん、今の状態はかなり悪い。しっかり休まないと、命を削りますよ」
