第2章

がらんとした別荘へ戻る。

両親は年中、国際的な演奏旅行で世界中を飛び回っている。冷蔵庫の扉に貼られた彼らの公演スケジュールは、びっしりと日付と地名で埋め尽くされているけれど、そのどこにも「帰宅」の文字は見当たらない。

物心ついた頃から、私のそばにいたのは家政婦さんだけだった。

自室に戻り、ベッドサイドテーブルに置かれた写真立てに目をやる。

七歳の私と、少し年上の高田誠一。彼の家のプライベートホールで撮った一枚だ。

あの日、私は一人で夜更けまでピアノの練習をしていた。

ふと気づけば、迎えに来るはずの両親の姿はなく、だだっ広い音楽室に迷子になった私は、ただ泣くことしかできなかった。

私の拙いピアノの音を聞きつけた誠一兄さんが、私を見つけ出し、高田家の音楽室へと連れて行ってくれたのだ。

彼は泣きじゃくる私をなだめ、そして、こう言ってピアノの前に座らせてくれた。

「姿勢が違うよ」

その時の彼は、とても優しかった。

「ほら、僕が教えてあげる」

それ以来、私たちはいつも一緒だった。子供向けの音楽教室から、国内トップクラスの音楽院に至るまで。

私が演奏で挫折し、プレッシャーで指が震え始めると、いつも彼がそばにいてくれた。呼吸の整え方を、観客の視線ではなく音楽そのものに集中する方法を、教えてくれた。

「僕だけが聴いていると想像してごらん」

彼は穏やかに言った。

「僕一人のために、弾くんだ」

そして今、そのすべてが終わった。

パソコンを開き、画面に表示されたメールをぼんやりと見つめる。イスレドン音楽大学への交換留学プログラムに合格したという通知は、もう三日間も受信箱に眠ったままだ。誠一兄さんと離れるのが怖くて、ほんの数日前まであれほど悩んでいたのに。今となっては、この決断こそが唯一の正解だったように思える。

「この度は、本年度の音楽院交換留学プログラムの学生として選出されましたことを、心よりお祝い申し上げます……」

何度も何度もメールを読み返しながら、自分がどれだけ高田誠一という存在に依存していたかを思い知る。

彼がいなければ、私は大きな舞台で完璧な演奏をすることすらできないのかもしれない。

心理カウンセラーからは、環境を変えることが治療の助けになると言われていた。それが、私の舞台恐怖症を克服するきっかけになるかもしれない、と。

自嘲の笑みがこぼれる。誠一兄さんは、私がようやく彼の世界から消えることを喜んでいるに違いない。

これで彼は自分の音楽に集中できる。もう私という「足枷」に煩わされることもない。

私も、独り立ちを学ばなければ。

両親には、留学を決めた旨を伝える短いメールを送っただけだ。

彼らが気にするのは、私がなぜ行くのかではなく、この留学が次のコンクールにどう影響するかだけだろうと、わかっていたから。

二ヶ月後、私はボストンの街角に立っていた。肌を刺す空気も、街の匂いも、日本とはまったく違う。

音楽院の入学手続きはスムーズに済み、アパートの契約も問題なく終わった。本格的な授業が始まる前に、まずこの街の有名な音楽施設を巡ることにした。

ボストン交響楽団のシンフォニーホールは壮大で厳かだったが、日本のクラシックホールに比べると、どこか空気が自由で、もっと寛いだ雰囲気がした。

夜、勇気を出してとあるジャズクラブに足を踏み入れてみた。

「ヘイ、そこのお嬢さん、一曲セッションしないかい?」

陽気なサックス奏者が私に手招きする。

気まずさで体がこわばり、私は小さく首を横に振った。そんな誘いをその後も何度か受けたが、そのたびに断ってしまった。

それでも、少しずつ、私の音楽スタイルと表現方法に、微妙な変化が現れ始めていた。

さらに二ヶ月が経ったある日。アパートでヴァイオリンのソロパートを練習していると、不意にスマートフォンが鳴った。音楽院の同級生、藤崎くんからだった。

「綾音、アメリカで元気にやってるって聞いたぞ」

電話の向こうから、懐かしい声が聞こえる。

「まあまあ、かな」

私は静かに答えた。

「こっちは確かに、日本とは教え方が全然違うみたい」

「何か新しいこと、見つかったか?」

「うん。新しいヴァイオリンの表現方法を試してるところ」

私は少し間を置いて続けた。

「でも……誠一兄さんの邪魔はしたくないから、私のことは言わないでほしい」

藤崎くんは、電話越しに苦笑しているのがわかった。

「わかってると思うけど、あいつ、実はすごくお前のこと心配してて……」

「ううん、してない」

私は彼の言葉を遮った。

「こっちは安全だから、心配しないでって伝えて」

藤崎くんは一瞬黙り込み、それから話題を変えた。

「そういえば、面白い音楽プロデューサーに会ったんだって?」

いつも型破りな服装で、すべてを見透かすような鋭い眼差しをした村上先生のことを思い出す。彼の前衛的な音楽理念と伝統への挑戦は、私を恐れさせると同時に、強く惹きつけた。

「ええ、とても特別な人」

私は多くを語らず、ただ簡潔に答えた。

電話を切った後、窓際に立ち、宝石を散りばめたようなボストンの夜景を眺める。

ここのすべてが新しい。私の音楽も。

私はもう、高田誠一のピアノがあって初めて音を奏でられるヴァイオリニストじゃない。新しい自分に、生まれ変わるんだ。

そして、そのきっかけをくれたのは、彼のあの言葉。

「俺から離れてくれないか?」

ええ、できるわ。

必ず、やってみせる。

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