第1章
東京の夜風は冷たい。
私は上野家が所有するペントハウスのテラスに立ち、遠くに広がる東京都の無数の灯りを眺めていた。
三十階という高さは、死ぬには十分だ。
「確認するわ。私の身体が消滅すれば、元の世界に戻れるのよね?」
私は虚空に向かって問いかけた。
【はい、ホスト。上野一樹の攻略任務は失敗しましたが、システムが免罰特権を申請済みです。規定時間内にこの世界から離脱すれば、ホストが消滅することはありません】
システムの音声が脳内に響く。
私はフッと軽く笑い、手すりに向かって歩き出した。
五年の月日、真心を捧げた結果が、この茶番だなんて。
今日の婚約パーティーで、私は丹念に選んだドレスを纏い婚約者を待っていた。それなのに、彼は高田桜からの一本の電話で、すべてを放り出して去っていったのだ。
これで、もう百回目。
冷たい金属製の手すりに指が触れる。ここから飛び降りれば、きっと即死よね? 苦しみも、もがきもなく、元の世界へ、本当の家族や友達の元へ帰れる。心の中でそう計算した。
「姉さん、何してるんだよ」
背後から聞き慣れた声がした。振り返らなかったが、佐藤燃が近づいてくる足音は聞こえる。
かつて七歳だった彼を、私は下町のゴミ捨て場から拾い、七年間寄り添って生きてきた。彼が十四の時、佐藤家に引き取られ、財閥の跡継ぎとなるまでは。今の彼は、流行りの茶髪に染め、家の紋章を身につけている。その瞳にはもう昔のような親しみはなく、嘲りと警戒心だけが宿っていた。
「姉さんなんて呼ばないで」
私は冷たく言った。
「あなたはもう、昔のあの男の子じゃない」
数時間前の婚約パーティーを思い出す。
びしっとスーツを着こなした上野一樹は、電話を受けるとすぐに顔色を変えた。
「桜が誘拐された? すぐに行く」
去り際に、彼は私を冷ややかに見つめた。
「君がやったことじゃないといいが」
なんて滑稽なの。
誘拐だなんて、高田桜と高田家による自作自演の芝居に過ぎない。
目的は単純。私の婚約パーティーを台無しにし、上野一樹が高田桜にどれだけ深い愛情を抱いているかを、皆に見せつけるため。
そして私は、徹頭徹尾、哀れな出来損ない!
「急がないと、あなたのお姫様の前でご機嫌取りするのに間に合わなくなるわよ」
私は皮肉を込めて言った。
佐藤燃は眉をひそめる。
「一体いつまで拗ねてるつもりなんだ?」
「拗ねてなんかないわ」
私は静かに言った。
「ただ、この世界から去るだけ」
【システムはホストのために免罰特権を申請済みです。七十二時間以内にこの世界から離脱すれば、消滅することはありません】
もう佐藤燃に優しくする必要はない。
私は家に帰るのだ。本当に私がいるべき場所へ。
私を悩ませ、苦しめてきたものなんて、もうどうでもいい。
私はテラスの縁へと歩み寄り、手すりを乗り越えた。
「おい! 何してんだよ!」
佐藤燃の声が急に緊迫したものになる。
「変な真似はやめろ!」
私は答えず、そのまま手を離した。
黒髪が東京の夜風に舞い、私は目を閉じる。
ようやく、この息苦しい世界から解放される。
この偽善に満ちた社会から、見かけは立派でも心はどす黒い人間たちから、解放されるのだ。
もうすぐ帰れる家、両親の顔、友人たちの笑い声……それに思いを馳せた。
突如、一人の手が私の袖口を強く掴んだ。
目を開けると、佐藤燃が片手で手すりを掴み、もう片方の手で私の袖を引き、真っ青な顔をしていた。
「離して」
私は平然と言った。
「気でも狂ったのか!」
彼は歯を食いしばる。
「死にたいならここで死ぬな! これが上野家にどれだけ迷惑をかけるか分かってるのか?」
彼は焦ったように言う。
「今回はあんたの勝ちでいいだろ? でも飛び降りたって無駄だ!」
「勝ち負けって……一体何の話をしてるの?」
私が激しくもがくと、二人ともぐらりと体勢を崩した。
下には東京の華やかな夜景が広がり、車のライトが流星のように走り、人々は蟻のようだ。
「楓姉さん……」
佐藤燃の口調が不意に甘えを含んだものに変わった。
「俺と一緒に落ちて死んでもいいって言うのかよ?」
私は彼を冷ややかに見つめる。
「あなたが死のうが生きようが、誰が気にするっていうの?」
佐藤燃の顔色がさらに白くなり、私を掴む手から力が抜けていくようだった。
彼の胸元の家の紋章が月光にきらめき、その瞳には私の読み取れない感情がよぎる。
私の心に、再び期待が湧き上がった。
元の世界、今行くわ。
